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【聖書】
出エジプト記 19・1~6

【説教】
「祭司の国イスラエル」




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雪解け3

 毎年楽しみに待っている2月19日の「雨水」が目前です。今年の妙高市の教会周辺は、積雪が多くても40センチ程度で推移して小雪でしたから、春の喜びは爆発的というほどではないとしても、それでも冬の終わりは嬉しいですね。未だ寒気の影響で気温が低いですが、それでも雪の降り方は春の雪に変わりつつあるようです。豪雪地帯といわれる私達の妙高山麓地も、このところは冬が少しずつ短くなっているように感じないでしょうか。嬉しいことですが・・・もろ手を挙げてというわけにはいかないのかもしれません。よく言われる地球環境の温暖化の危惧だけではなく、雪国人の気質もまた変化していくかもしれません。二ヶ月の冬も長いと感じて、忍耐気質も変質していくのは避けられないかもしれません。

 いつもながら私には2月の味わいは格別に思えます。ある面で寒さが厳しい冬の真ん中でありながら、しかし一方で春の兆しが見え隠れするのです。何ともいえない味わいではないでしょうか。3月は素晴らしい、でももう春がはっきり見えて、何か待つという喜びが失せてしまって、2月よりはスリル感とでもいう要素がなくなってしまうからです。ということは普段はあまり意識しませんが、待つということは人生の喜びの大きな隠れた要素だと教えられるように思います。このことは聖書が教える信仰の世界の味わいと通ずるものです。

 聖書のへブル書は、「信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものだ」と大胆に定義し(11・1)、ローマ書は、「目に見える望みは、望みではない、まだ見ていないものを望むという、この望みによって私たちは救われているのだ」と、これまた驚くべき定義をしています(8・24-25)。まだ見ぬことを待ち望むことによって救われるとは、普通の常識とは逆ですね。私たちは結果を見て、救われたと言うのではないでしょうか。でも聖書は、まだ見ぬことを持っていてこそ、あなたの信仰は生きるというのです。まだ見ていないことこそが、私たちには無くてはならない忍耐と希望の源であることを覚えて、信仰をささげたいものです。
【聖書】
申命記 33・1-5,26-29

【説教】
「しあわせなイスラエルよ」

↓早津牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます



雪解け2

 先日は立春に春一番の報が重なりました。それに併せるかのように、元々少なかった雪が解けて、教会の周りはすっかり春らしい景色に変わりました。でも季節はずれの春一番ですから、何か偽者のようで万歳と言うわけにはいきませんね。もう少しじっくりと忍耐の冬を経験し、本物の春一番を喜び迎えたいとも思います。

 児童虐待の痛ましい事件が連日意報道されています。このような事件の度に、わが子を虐待するなんてとんでもない人間だと、その親たちの非道性に誰もが呆れる思いでしょう。血を分けた小さなわが子への犯罪ゆえに、それはある意味で他の深刻な犯罪よりも、いっそうその悪魔的とも言える非人間性が際立って見えるからです。でも悲しいかなこのような現実は、人間性の深い闇を映し出して、人間すべてに対して警鐘を鳴らしていると見なければなりません。

 その警鐘とは、「とんでもない人たち、自分とは全く関係ない」と、誰も打ち捨てて済ますことはできないということです。彼らもまた同じ血を持つ人間だからです。人類は皆この同じ血を持つという点で同類、同根だからです。認めたくはありませんが、環境や状況が難しなったり、何か抗し難い圧力の下にさらされるなら、高い人間性も、幻滅に転じてしまう可能性を誰も感じているのではないでしょうか。ごく普通の市民たちがナチスの犯罪に総動員された負の歴史は、抹殺したくても消すことはできません。いや決して消すべきではない人類の永遠の教訓です。喧騒と分断が深まっている昨今の世界の状況も、何かその人間性を改めて浮かび上がらせていると言えるのではないでしょうか。成熟したといわれる民主主義が躓いて、逆戻りしているような姿を見せているからです。政治が劣化したと言われますが、それは劣化ではなく、元々の本質が時を得て現れたと言うべきかもしれません。高い教育も進歩した政治形態も、人類を保証しないということではないでしょうか。根幹の人間性が、それを造られた聖なる神様の道徳性とつながってのみ、抗し難い破壊の力から守られることを覚えたいものです。
【聖書】
創世記 32・6-30

【説教】
「あなたの名はイスラエルだ」

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雪解け

 立春を迎えます。24節季は、季節を一月早く先取りしているように感じるとは言え、立春の響きは幸いな希望の響きではないでしょうか。見るところは最も寒さと雪が厳しくある真ん中のようですが、その中ですでに春が始まっているとは驚きでもありますが、希望の力強さを証して、私たちを励まします。聖書を知るクリスチャンにとっては、信仰の本質を教えるようなことばでもありますね。見えるところはどんなに厳しくても、その中心には生ける神様がおられて、愛と恵みの御心に従って時計の針を回しておられると聖書は教えるからです。ですので未だ厳しくはある季節ですが、信仰と希望を学ぶ2月として喜び迎えたいと思います。

 先日はスポーツ界で大きな嬉しいニュースが報じられました。テニスの大坂なおみ選手の全米に続いての全豪優勝の快挙です。あまり興味の無い人には恐縮ですが、私もこの歴史的快挙に興奮しました。優勝もさることながら、何よりも祝福を送りたいのは、彼女が精神的な苛立ちと不安定を冷静にコントロールして落ちついたプレーをしたことです。自分は精神年齢が3歳だと、謙遜にマスコミを笑わせていた彼女ですが、その如く、度々上手くいかない自らのプレーで精神的に不安定になり、投げ出すように自滅してしまうことが彼女の弱点でした。今回も勝利を目前にしながら、突如この悪いパターンに陥りかけました。私は、「ああー彼女はもう駄目だ」とそこでスイッチを切ってしまいました。ところがその後の展開は、休憩を挟んでまるで別人のように冷静にプレーしたのを後から知りました。元々体力的、技術的に一級の彼女はもう鬼に金棒でした。

 今回の勝利はその意味で、これからの彼女にとって、優勝以上に最大の教訓と祝福をもたらしたでしょう。それは観ている私達にとっても同じです。一番の戦場はまず自分との戦いなのですね。聖書には、「自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(箴言16・32)とあります。日々の歩みの良し悪しも、他に原因があるのではなく、まず静まって、神様から心を整えていただくことにあると覚えたいものです。
【聖書】
創世記 17・1-8

【説教】
「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」

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雪

 新年も一ヶ月を過ぎようとしています。冬の時間は進むのが遅く感じますが、それでも時は確実に刻んで神の支配を進めています。神のみ旨が成される時として刻まれるなら、時は怖いものではありません。聖書にあるように、それは恵みの時として刻まれていることになります。ですので、いつも今は恵みの時として信じ、この一年の全ての時を、主と共に歩んで行きたいものです。

 とは言え、この世界は神の支配が見えにくいのも事実です。神を知っているクリスチャンにとっても見えにくいのですから、一般の人々にとっては、神の支配など全くナンセンスで眼中に無いことでしょう。ある意味で神様はことさらにご自身を隠すようにしてこの世界を導いておられるかの如くです。その意味の全ては分かりませんが、特に旧約の聖徒たちの生涯の教訓から学ぶならば、信仰を訓練することがその大きな目的と思われます。彼らは見えない中を、物事が進まず、まるで時間が止まっているような遅々とした中を、更には、祈り願っているにもかかわらず、一向にその如くには好転せず、かえって闇が深まり、災いが増し加わるようにしか見えない時間を過ごしました。まるで神様が意地悪をしているような取り扱いでした。

 しかし私たちはそれら聖徒たちの人生の結末を知っています。彼らは皆そのようにして、神様の深さを知り、信仰と人格が訓練されていきました。ですからこの、信仰は闇の時間と共に育つとも言える現象は、全てのクリスチャンにとって、公式とすべきと心得るべきなのでしょう。闇の時、忍耐の時、そして解決しそうに見えない課題等は、誰にとってもなくてはならない恵みの時、恵みの課題と言うべきで、決して負の遺産ではないのです。ですからこれらと共にあることが正常な人生であると心得ましょう。しかしとかく私たちは信仰的余裕を失います。災いと考えてひたすら除かれることばかりを求めて悪循環に陥ります。しっかり静まって信仰的余裕が与えられますように。そしていつも今は恵みの時との、励ましを頂いて主についていきたいものです。
【聖書】
イザヤ 40・18-31

【説教】
「しかし、主を待ち望む者は鷲のように翼をかって」

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つらら

 春を待って指折り数える冬も、1月20日を迎えます。正味の冬も2月の20日までのちょうど1か月となりました。暦を早くまわしたい気持ちと共に一方で、静かな冬篭りがあまり早く過ぎて欲しくない気持ちが交錯します。でも今年は山型の雪のようですから、関山地区の皆さんはまだ気が抜けませんね。

 冬は後1か月ですが、新年の旅は未だ始まったばかりです。ですので少なくても3月中旬位までは長い旅路の準備期間として、また土台を形成するために、じっくり腰を落ち着けてみことばと交わる時になれば幸いです。

 この1年も主と共に歩む信仰の旅路です。先回も書いたとおり、これは何と幸いな旅の定義でしょうか。一人ではなく、先立つ主と共に、未だ見ぬ道を歩いていけるからです。聖書の特にヘブル書は、何も見ていないのに、また何の兆候らしきものさえも見えないのに、神を大胆に信頼して歩んだ信仰の先人達の旅路を称賛しています。その姿は、神を知らない無神の世の中の常識からは全く無謀な狂信でしょう。

 しかし神を知る聖書の世界では称賛されるべき常識です。聖書はこの常識をどれだけでも広げて主についていくように招きます。この大胆な招きを、まず旅路の前にしっかり深呼吸するごとく吸い込んで旅の備えとしたいものです。

 そういう意味では未だ見ていないことのすべては挑戦です。そして未だ見ていない事柄の中でも、先人達が挑戦されたように、とても有り得るとは思えない難しい事柄の一つ一つは、聖徒達の足跡をたどるために用意された恵みのルートと言えるでしょう。ですので未だ見ていないことを、そして難しい課題を恵みの挑戦として喜びましょう。

 ヘブルの書の先人達の信仰は、お話の世界の物語として聖書に記録されているのではなく、同じ主が21世紀に生きる私たちに対しても同じ信仰を要求され、それを称賛しようとして待っておられることを示します。誰にとっても未だ見ぬ事柄は負の遺産ではありません。信仰を燃やすための恵みの薪と心得て、それをもって信仰を燃え立たせて主についていきたいものです。
【聖書】
詩編 1

【説教】
「喜びの源泉は主の教え」

↓古庄神学生の説教 *三角印をクリックすると声が流れます


寒い

 新年がスタートして約2週間、雪国ではこれからが冬本番です。それでもこの厳しい冬も、2月の中旬までの正味一ヶ月ですので、気が早いようですが、早や春に向かってカウントダウンが始まっているともいえます。ですので1月は冬の真ん中にありながら、楽しみな月ではないでしょうか。とは言え、異常気象傾向の近年ですから、侮らず、気を抜かず、祈りつつ冬と付き合わなければなりませんね。

 冬本番の1月は、自由に動き回れる季節に比して、気候環境的に制限される時です。それはそれで雪に閉じ込められて強制的に静かにじっとさせられる恵みの月と言えないでしょうか。昔と比べて、じっとできるのどかさは大幅に失われていますが、それでもこの自然環境を、主の前で普段よりも静まる時として過ごすことは、一年の始まりの季節としてもふさわしいのではないでしょうか。それぞれの1月が、一年を展望しながら、主を思い、主から聞く、霊想の月となりますように祈ります。

 年末来、それぞれの一年は主と共に歩む旅路であることを確認してきました。荒野を訳も分からず迷子のように一人孤独に歩んでいたように思えた私たちにとって、この事実はクリスチャンになって知った最大の幸せの一つです。しかも共に歩まれる私たちの旅路の友は、この世界万物の造り主、全知全能の神なのです。この方が頼もしい良き羊飼いとして、一匹一匹の羊たちを緑の牧場、憩いのみぎわに間違いなく導いてくださる旅路なのです。その完全なケアーからもれる羊は一匹もありません。この幸いな旅路の絵を、この一年の全ての日々にあって思い描きたいものです。この夢のような幸いを日々の現実として経験していくことは主のみ旨です。そのためには一日の始まりに、わずかな時間でも確実に静まって、この絵を心に描きながら主の導きを求め祈って、一日をスタートしたいものです。その一日は確かに主の導かれる旅路として保証されるでしょう。いろんな日があります。心重く、憂鬱な日、ストレスを覚える日こそ、旅路の主をしっかり見上げ、信じてお迎えして、その日を始めたいものです。
【聖書】
詩編 23

【説教】
「雲の柱、火の柱と共に」

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2019-01-10 雪景色

 主の年2019年明けましておめでとうございます。日本列島は寒波の中で、そして雪国の私たちの故郷は雪景色に変わりました。でも本来の雪国の姿ですから、慌てずに穏やかに新年を迎えることができたのではないでしょうか。

 クリスマスの主の来訪から数えて2019年。一人の一生が経験するのは約80年ですから、誰にとっても約2000年近くが未知の歴史として刻まれてきたことになります。そして更にアダムとエバの最初の人類誕生から数えるなら、それこそ気の遠くなるような時が刻まれました。それを思えば、新しく迎える2019年など、長い何千年もの歴史の中で埋没してしまう、点のような一時に過ぎず、いったい一年の意味などどれほどかと感じてしまいますが、しかし私たちにとって、新年のスタートにあたっての励ましは、アダムとエバの時から歴史をつくられた同じ主が、それ以来ずっと変わらず目的をもって導いておられる貴重な一年であるということです。

 聖書によれば、「神はアダムからすべての人類を造り出し、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とを定められた」(使徒17・26)とあります。私たち一人ひとりが今、2019年に生を受けて、この日本に生きているということも神の計画だ告げます。いったい自分など何の意味があろうか?新しい年も気の遠くなるような繰り返しのマンネリに過ぎないとではないかと感じる時は、この壮大な神の計画を見上げ、そこからそれぞれがこの迎える新しい年を展望したいものです。そして主は、全人類とこの地球の歴史を導いておられるだけではなく、それ以上に一人ひとりの人生に深い関心を寄せ、その導き手、つくり主であることを覚えたいと思います。それこそ無数の中の、点のような自分に、いったいどんな計画と導きがあろうかと思ってしまいますが、それが聖書の約束です。2019年は、主が良き羊飼いとして私を親身になって導かれる恵みの日々です。それぞれの今がどんなに難しい時でも、旅路の先頭には恵みの主がおられます。不思議なコンダクターによる恵みのツアーが始まります。信仰による期待感を失わずにこの一年の旅路を歩み通したいものです。
↓朝日に輝く妙高山(はねうま大橋より)
2019-01-01 妙高1

↓元日礼拝


2019-01-01 花
【聖書】
詩編 91

【説教】
「主の真実は大盾、また砦。あなたは、その翼の下に身を避ける」

↓早津牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます


雪

 暖かい天候に恵まれクリスマスが終わりました。年末寒波の予報ですが、それでも穏やかに2018年が終わろうとしています。災害の頻発や世界各地の混乱が報じられた近年ですから、穏やかで平和であるということは当たり前ではないのだと、誰でも感じざるを得なくなっているのではないでしょうか。毎朝太陽が昇り、雨が適度に降り、そして何よりも足元の大地が揺れ動かずに堅く横たわっているという、最も基本的なことさえ、実は当たり前ではないと覚えさせられることは、人類には必要な感覚なのでしょう。

 聖書はこの天地の平和と安定の土台を、創造主なる神の絶対的な恵みの支配に帰しています。私たちの足元の大地も、ひとりでに堅く立っているわけではないのですね。聖書にはこの神の恵みの支配を、感謝し讃える多くみことばがあります。「地は主の恵みに満ちている」(詩33・5)「あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます」(詩36・5) そして一年を締めくくるにふさわしいみことばは「あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています」(詩65・11)等です。どんなにか私たちの歩んできた全ての日々を励ますことでしょうか。足元の大地の堅さ以上に、神の恵みという堅い堅い土台が私たちの人生を支えています。大地が地震によって変動することを私たちはたびたび経験していますが、神の恵みという土台は決して揺れ動くことはないのです。詩篇46編の有名なみことばは、この思想を「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも・・・神はわれらの避け所、それゆえ、われらは恐れない」と賛美します。さらに、「あなたの真実はあなたを取り囲み・・・そのわざはことごとく真実です」(詩89・8、33・4)とあります。

 どんな人にとっても、私たちが経験した一年のすべての出来事は、神の恵みと真実以外からは出ていないと保証しています。それゆえ一人ひとりにとってこの年末、過ぎた一年のすべての日々が、神の恵みと真実の光に照らされ、感謝の日々として改めて思い返すことができますように。
恒例の「クリスマス チャペル・コンサート」が12月23日に開かれました。今年は柏崎市出身のゴスペルシンガー、兼松弘子さんをお迎えしました。日本人は慣れしたソウルフルな歌声で知られ、国内外で活躍しています。ピアノ伴奏は愛知県出身の米田香さんです。

ご覧のようなプログラムでした。時間の都合でアンコールに応えていただけなかったのが残念でした。

2018-12-23 チャペルコンサート1
↓兼松さん
2018-12-23 兼松さん1
↓米田さん
2018-12-23 米田さん

①クリスマス讃美歌メドレー
 神の御子は~荒野の果てに~天には栄え~Oh Holy Night~諸人こぞりて
②His Eye Is The Sparrow(一羽のすずめ)
③黒人霊歌メドレー
 深い河~アメイジンググレイス~リパブリック賛歌
④Precious Lord(慕いまつる主なるイエスよ)
⑤Jesus Loves meメドレー
⑥Christmas Truth
⑦You Raise Me Up
⑧How Great Is Our God

↓クリスマス讃美歌メドレー(動画)


↓黒人霊歌メドレー(動画)
2018-12-23 ツリー

2018-12-23 早津牧師1

 本日はよくいらっしゃいました。毎年めぐってくるクリスマスですが、改めて皆さんと共に記念したいと思います。クリスマスという言葉はそれこそ世界中、津々浦々に知れ渡っているでしょうが、キリストが生まれた日?位は知っているとはいえ、その内容についてはほとんど知られていないのが実情ではないでしょうか。クリスチャンとしては少し複雑な気持ちです。もっとも、世界中に数ある多くの祝祭日なるものは皆、そのオリジナルな由来は飾り程度に風化してしまうのが実態かもしれません。私も肝心なことは何も知らない一人として、高校2年の12月25日、初めて教会の門をくぐり、礼拝に参加しました。ちょうどその日はクリスマスと重なって、キリストの誕生を祝う喜びの雰囲気の中にあったことを記憶していますが、当然ながら自分と関係づけることができず、傍観者としてそこに座っていました。

その時の礼拝のお話も全く思い出せません。唯一つ、強烈な印象を受けたのは、そこにいるクリスチャンたちの存在でした。この現代に神を信じる人々がいるんだ?ということが、全く不思議でした。今日の誰でもがそうであるように、私もいわゆる合理的科学的といわれる無神論教育を受けていた平均的な無神論者でしたから、その人々の存在は、一方で大きな興味をもたらしました。教会とこの人々は、全く別世界だなと思いました。強烈な、でも爽やかな文化ショックを受けて帰路に着きましたが、私の心には何か暖かい光が灯っているようでした。それは希望のようなものでした。「もしかして神がいるのかもしれない、そうであればどんなにいいだろうか、もっと知りたい」との思いが与えられ、以来、毎週教会に通うようになりました。そして程なくして、隠された宝を発見したように、神を信じる人々の仲間入りをすることになりました。

 “もし神がいるなら見せて欲しい”という万人の願いに答えるのは、人間となられた神なるイエス・キリストです。このクリスマスシーズン、もし本当に神がいるなら知りたい、と求めてくだされば幸いです。そして人生のこの切実な願いに、今も生きておられるキリストが答えてくださいますように。
【聖書】
ルカ 1・46~55

【説教】
「マリヤの賛歌」

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