【聖書】

 IIサムエル 11.26~12.25

【説教】「御霊の実の意外な見本」

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アジサイ

 梅雨入り宣言が目前です。今日は関東甲信まで梅雨入りとなるという予報でしたが、甲信越の越に入る新潟はしばらく雨マークがないので一緒の宣言とはならないのでしょうか。関東方面から新潟に来た学生たちが、新潟の梅雨は梅雨らしくない空梅雨ですねとの印象を同じように語っていたことが意外でしたが、そうなのかもしれません。こちらでは既に冬に、十分な降水量とどんよりした天気が続いてきたわけですから、梅雨には少し相殺される恵みなのかもしれません。いずれにしても約一ヶ月の雨の季節です。雨に歩調を合わせ少しペースダウンしながら、一年の折り返し点を静かに歩むのもいいのではないでしょうか。

 このところこの欄ではどうしても日本の政治的状況の話題となってしまいます。もう一年以上にもなるモリカケ問題が依然として収束せず、国民全体が釈然としない思いの中に放り込まれているからです。その原因は、遅ればせながら次々と内部文書がそれでも公にされてきたことにより、問題の構図が国民の目にはもう疑いようがないようにさらされているにもかかわらず、当の政府がそれを認めないという一事に尽きるのではないでしょうか。不誠実にごまかし逃げようとするその姿に、怒りがあきらめに変わってしまいかねない危機を感じます。ごまかし逃げ切れると踏んでいるような政府がいつまで許されるのでしょうか。麻生大臣の傲慢な姿勢をとがめる人もいない政治的状況に、与党の政治家たちが皆良心を売って死んでしまっているといわざるを得ませんが、それを国民が選んで1強状況を作り出しているのですから何ともやりきれない思いです。先日は加計学園の事務局長なる人物がぽっと出てきて、これまたとぼけた会見をマスコミの前で公然としたことにも驚かされました。日本中がこの人物の顔をあきれて見つめたことでしょう。箴言には「支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる」(29・12)とあります。この人も上を真似しただけなのでしょう。私たちは今政治的危機以上に道徳的危機と戦うように試されているのでしょう。
【聖書】

 ローマ 5.1~5

【説教】「御霊の実を結ぶ、その慰めの道」

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2018-05-24 バラのトンネル2

 6月に入ります。風薫る5月から雨の月に変わります。爽やかな5月に比してどうしてもうっとうしい季節として歓迎されませんが、水田を初め植物界にとっては圧倒的な恵みの季節というべきなのでしょう。また乾燥地帯の地域にとってはまことに羨ましい日本ということになるのではないでしょうか。雨を造られ、恵みの雨として降らせる神様を覚えながら、6月もまた恵みの月として迎えたいと思います。

 アメフト問題で連盟は、前監督とコーチに対して除名という厳しい処置を下しました。大方の理解では当然という受け止めではないでしょうか。無防備な相手選手に対して明らかにルール違反の危険なタックルを命ずるなんて、素人目にはまったく殺人を命ずるに等しいと思えます。こんなとんでもないことが放置されるなんてあってはならないことであり、除名で済まされるとも思えません。このような悪が衆目の中で公然とプレー化するに到った原因の一つは、やはり組織の中に沈殿し続けた勝利至上主義ともいえる価値観ではなかったでしょうか。それが実績をもたらした監督によってますます強化され、誰も異を唱えられないような体質が出来上がっていったようです。そのことは、自分たちは何も考えずに監督に従うことを良しとしていたという、日大選手一同の反省表明文にも明らかにされています。選手たちはもうこの監督のためにプレーしていたという悲しむべき状況でした。しかしその組織の中にあっては立ち止まることなどできず自分でも良かれと思ってひた走っていたのです。

 どこかカルト宗教に通じますね。悲しいかなこれはまたどのような組織にもまた個人の人生にも通ずる教訓です。今まさに日本の政治の中枢で、自民1強という権力の集中化によって似たような横暴と黙従ともいえる状況が繰り広げられています。日本全体が安倍政権のためにプレーさせられているといったら大げさでしょうか。国民による除名判断こそが求められているといえないでしょうか。いつの間にか自分を正当化するプレーヤーになりやすい私たちも、自らを除名にしつつ歩む覚悟が必要ですね。
下記の日程で、恒例の「きょうかいバザー」を開きます。

 手作りのケーキ、パン、チヂミ、焼鳥、焼きそば、チヂミ、もち、ホットドックなども販売します。

 どなたでも来場できます。お気軽においでください。

バザー
【聖書】

 ガラテヤ5.13~26

【説教】「小さなキリストたちの目差すべき姿」

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稲

 田植えの終わった田んぼが回りを取り囲むようになりました。待ちに待った雪解けと春の景色が、早や初夏の風景に入れ替わります。今年ももう中盤です。いつもながら過ぎてみると、時の流れはあっという間です。時には止まったり、普段よりはゆっくり打っても良さそうなのに、お構いなしに非情とも言える規則正しさです。しかし聖書はむしろ恵みの時が刻まれていると解説します。これから向かう中盤も神から与えられる恵みの時として受け取り味わっていきたいものですね。

 アメフト問題で、異例とも言える渦中の青年の公式会見が報じられました。包み隠さない正直な告白が全国に中継されました。この一事で問題の全容がほぼ伝えられたのではないでしょうか。この青年の抱えた追いつめられた苦悩に誰もが同情を覚えたでしょう。そのような窮地に立たせた上に立つ者たちの責任は重大です。しかし両者の対照はいっそう際立つものともなりました。青年はあるべき良心と正義の存在を、身をもって証しました。その姿を見ながらある意味で日本中が襟を正されたのではないでしょうか。それに比して範を示すべき権威者たちはなんという体たらくでしょうか。一大学のこととは言え、大人社会の欺瞞を映し出しているようです。

 今日の新聞の川柳に、「真実を隠す卑怯な大人ども」とありました。このような姿が今、あちこちでさらされています。ことに日本の良心となるべき政治の中枢で、対照的な姿が連日報じられています。同じ川柳には「徹底してしらばっくれようこの件は」とありました。森友・加計問題で、もう一年も真実を語らず逃げ続けている政府の姿勢への風刺が続きます。安倍首相は青年の会見をどう見たでしょうか。国民に見え見えのうそと見透かされているのに依然としてうそを強弁する神経に、同じ人間とは思えない不思議さを覚えますが、嘘で逃げ切れると見くびられている日本国民が悲しく、怒りを覚えるべきなのでしょう。「人の振り見て我が振り直せ」と言われます。今、政治は最大の反面教師です。良心と正義の前にいつも我が襟を正したいものです。
2018-05-03 夕焼け

 5月も半ばを過ぎて、先日は半袖で過ごせる暑い日にもなりました。そして風景は新緑から深緑へと移り変わります。いつもながらその変化ができるだけゆっくりでありますようにと願いますが、梅雨前までのこの貴重な季節を満喫したいと思います。
 
 アメリカ大使館移転の暴挙に伴うパレスチナとイスラエルの衝突が報じられています。無力なデモ隊に向かって実弾射撃をするイスラエルに大きな怒りを覚えます。そんな悲劇をよそに、災いの種を蒔いた張本人であるトランプ大統領が、イスラエルとパレスチナ双方に平和があるようにとテレビメッセージを送っている姿にはただあきれるばかりです。そしてこのような暴挙を止められない国連の姿を見れば、やりきれない無力感にとらわれてしまいます。トランプ大統領誕生とその政策実行の支持母体として、アメリカの福音派が大きく関わっていると言われます。そこにアメリカ福音派の独特の不思議な闇を見るようですが、他人事ではありません。私たちは同じキリスト者として聖書解釈のあり方を常に点検し、独善的傾斜を常に戒め、健全な社会正義の感覚を養わなければならないと自戒させられます。

 今週はちょうど主イエスが復活して天に帰られてから、今度はイエスの代りに聖霊がこの地上に降られ、一人ひとりのクリスチャンたちに宿られたことを記念するペンテコステ(聖霊降臨祭)です。神様が独り子である主イエスを通して成そうとされた救いの大事業は、このペンテコステをもって完成を画する出来事でした。すなわちその意味することは主を信じる者たちの内に聖霊(三位一体なる神様のもう一つのお姿)が宿ることによって、一人ひとりを天に帰られたキリストに代って、小さなキリストとして誕生させることでした。罪人に過ぎない者たちが一体、キリストになると言うのか?と、信じがたい大事業ですが私たちはこれを信じます。平和と正義への無力感が覆っているこの世界にあって、小さなキリストたちこそが、一人ひとりは亀の如くであっても、キリストの心を実践する世の光たり得ますように。
【聖書】

 ルカ 15.10~24

【説教】「放蕩息子の父」

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↓教会のエゴノキ
2018-05-16 エゴノキ1

 5月も半ばを迎えます。新緑も深まって、今はもう南葉山の頂上まで緑が這い上がるようになりました。様々な花も咲き出して、追いつけないほどです。教会の庭ではヤマボウシの白い十字の花がちょうど満開になり、エゴの木の白いつぼみがふくらんで今にも咲き出しそうです。そして店先は今カーネーションの季節です。

 母の日は改めて親について考えてみるよい機会でもあります。親子の関係については世の中にも多くのことわざがあります。「子を持って知る親の愛」「孝行したくとも親は居ず」などは、よく知られた誰でもの共通の感慨ではないでしょうか。これらから伝わってくるのは、親というものはなかなか報われることの少ないものだという悲哀のようなものでしょうか。大体はどの親も我が子のため精一杯、できるだけのことをしようとします。しかしそれにふさわしく報いられるかといえば、とてもそれはつりあってはいないものでしょう。ある場合には子どもによって大きな悲しみを受けることさえ親にとっては平均的なこととも言えるのではないでしょうか。

 ある親の心の痛みが以下のように表現されていました。「できるだけのことをしたんです。精いっぱい愛しました。でも今、娘は生まれてこなかったほうがよかったといいます。自分の問題はすべて私たちのせいだと責めます。」身につまされる悲しみですが、親の限界と悲哀を典型的に表しているともいえます。親はこうあってほしいと願いますが、それを強要することは出来ません。子は親に似るものだといわれますが、多くの親が実感していることは、いかに自分と違っているものかということではないでしょうか。確かに親たちは自分とは違った自由意志を持った子どもを授かったのです。この関係はちょうど神と人間の関係をも映し出しています。父なる神は人間を創造しましたが、反逆する自由を尊いものとして付与されました。与えた自由のリスクを背負いながら、じっと我が子らを愛し続けておられるのです。親であるとはこの神の愛を教えられ続けることであり、ここに恵みもまた隠されているのですね。
↓板倉区やすらぎ荘の芝桜
芝桜2

 ゴールデンウイークの5月第一週は、まさに一年中で最高のゴールドシーズンともいえるのではないでしょうか。野山はやわらかい新緑のグラデーションに包まれます。春党の人は秋の紅葉にも勝ると賛美することでしょう。一年でこの季節だけに現れる数週間は、いつもながらこのまま時間が止まってほしいと願うものです。どう表現したらいいかことばが出てきません。ただすばらしい・・・と。

 今週は賛美礼拝ですが、今述べた自然へのこの賛美の感覚が、神への賛美とはどのようなものかを、道案内してくれるかもしれません。すばらしい自然を前に、誰に強制されるのではなく、ただおのずと賛美が湧き上がります。いやただそれしか出来ないのです。どこかの国の指導者が、国民に強制的に賛美を強いることとなんという違いでしょうか。もし神を前にするなら、多分私たちはただことばにならない賛美をささげるだけなのでしょう。それは春を賛美することさえ色あせてしまうような光景となることでしょう。

 この光景を垣間見させてくれる場面が黙示録に記されています。神に造られた全人類と万物を代表して、24人の長老たちと四つの生き物が、神に向かって、聖なるか、聖なるかな、と賛美と感謝をささげます。しかも昼も夜も絶え間なくただこれだけを叫び続けたとあります。(黙示4・8-11) 昼も夜も24時間、休みなく、ただ賛美と感謝をささげて疲れることもないのです。私たちの内なるエネルギーのすべてをこの礼拝と賛美に掻き立てる圧倒的な存在者を目の当たりにしているからです。それは何と羨ましくもある光景でしょうか。それに比べれば、今地上にある私たちの礼拝は、賛美されるべき方にとても似つかわしくない、のろのろとたどたどしいものです。まだまだこの方のすばらしさを知らないからですね。それでも神様は私たちの貧しい賛美を喜んでくださいます。やがて私たちもこの地上の旅路を終わって神にまみえて、憧れの礼拝に加わります。それまで、まだ見ぬ神の素晴らしさを更に知り続けて、天の礼拝に少しでも近付いた礼拝者にされたいものです。
【聖書】

 創世記 39.1~23

【説教】「神不在に見える時、御力の現れはどこに?」

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↓松山で咲き始めたシャガ
シャガ1

 教会の庭はどの木も新緑がボリュームたっぷりになりつつあります。濃い緑になるまでのこの期間の若葉色はとても人間では作り出せない微妙な美しさです。赤ちゃんの柔らかい肌のようなふわふわ感ではないでしょうか。確かに木の葉は一年サイクルで一生を終えるともいえますから、今が誕生したばかりのみずみずしさと生命力にあふれている時でもあります。いのちあふれるこのすばらしい春に、目に見えずとも隠しきれないほどにご自身を現しておられる、このいのちの源なるお方をしっかりと仰ぎ見たいものです。

 先日はとても暖かい陽気の中、2週順延していた墓前礼拝とピクニックが出来ました。メインの桜はもう終わっていましたが、八重桜の種類がちょうど見頃でした。食事を終わって、子どもたちはかくれんぼをしました。大人になると多分誰もかくれんぼなど重労働、少しも面白くないとしらけてしまいますが、子どもたちは皆不思議なほどかくれんぼが大好きですね。(古庄姉は一緒にやってくれました。ご苦労様でした。)そのかくれんぼを見ながら、あーあ、鬼は大変、こんな広いところで一体どうやって捜すのかと同情しましたが、でも鬼役の子どもは、捜す気満々で楽しそうでした。一体このゲームでは鬼と隠れ役はどちらが楽しいのでしょうか?

 そんなことがあった今週、私はヤンシーの本を読み直していたのですが、ちょうどかくれんぼの話題が出てきました。そこでは隠れ役の楽しさに触れられていました。鬼に熱心に捜され、とうとう見つけられることが楽しいのだと。確かにこのゲームは鬼があきらめてしまって、捜すことを放棄してしまったら成り立ちませんね。このことはちょうど神様と人間の関係にも当てはまるようだとの例証でした。聖書には「主はご自身を隠す神」(イザヤ45・15)とも言われています。そんな神なら分かりようがないではないかと腹立たしく思ってしまうものですが、神の本音は、隠れることにあるのではなく、早く捜し出して欲しいと、見つけられることを楽しみに待っているお姿というべきなのでしょう。捜す気満々の子どものように、この聖なるゲームに参加し続けたいものですね。
【聖書】

 コロサイ 3.16~24

【説教】 「神の御力の現れを求めて」

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↓矢代川沿いの桜
矢代川の桜

 気がつくと、日一日と緑が増えていきます。聖書が言う如く、まさに「眠っている間に」春は活発に動いているのですね。いよいよ新緑の本番を迎えます。やわらかい緑が徐々に一面を覆うようになるこれからの約一ヶ月は、いつもながらこのまま時間が止まってほしいと思う楽しみな季節です。残念なことは、あっという間に過ぎてしまうことですね。

 自然ののどかさに比して、内外の政治社会状況は大きな変化を予感させ、気になる状況が沢山です。近付く南北会談、米朝会談を中心に、それを取り巻く世界に何か大きな変化が起こるのかどうか、重要な歴史的瞬間を迎えているともいえます。この重要な時期に、しかし安倍政権は気もそぞろといった状況ではないでしょうか。ここに来て5年間の安倍政権の膿が次々と暴露されて、政権の足もとが大きく傾きかけているからです。政権の1強状況がおごった強権的私物化政治を招いたと盛んに論評されていますが、まさにその通りでしょう。今までは強い政権に忖度しているように見えた政権支持側のマスコミまでが遠慮せずに報道しているかに見えます。しかし不誠実な政権を追いつめるべきこの時、我が米山知事のスキャンダル会見がなされ、辞任の方向であることが報じられました。原発慎重政策に期待していただけに、足元をすくわれたような痛手感がありますが、会見の誠実さには同情を覚えました。本人は無念でしょうが、しかし正直に罪を認めて責任を取ろうとする態度に、「この人は大丈夫だ」と、再起を応援したいと思いました。

 しかし一方の政府の態度は全く対照的です。繰り返し嘘を平気で強弁し続け、それでいて「信なくば立たず」を平気で引用する無神経ぶりには、つける薬がないとあきれるばかりです。政治家どころか人間辞任ものだと思ってしまいます。聖書は能力ではなく、正直と誠実、そして正義と真実こそ人間のいのちと教えます。誰でも失敗や罪から自由ではありません。そこにうその誘惑が入ります。罪は隠す時ますますその奴隷となります。しかし隠さず告白する時、もはや罪はその力を失い、私たちは憐れみを受けて勝利者となれるのです。
【聖書】

 IIコリント 4・1~18

【説教】「土の器と神の御力の現れ」

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↓教会のライラック
2018-04-15 ライラック-2

 満開のサクラがだんだん散り始め、葉ザクラとなりつつあります。またこの季節は無情にもよく春の嵐も吹き荒れてしまいますので、サクラのいのちはそれとの戦いのようでもあります。でも自然界はそのことも織り込み済みなのでしょう。多分サクラは満足感と共に今年の使命を終えて次の花々に舞台を譲るのでしょう。教会の庭ではもうライラックが咲き始め、そして新緑の季節になりつつあります。春は変化が早いのでそれがうれしくもありますが、またそれについていけないのが残念でもあります。

 自然界は多少の前後はあったとしても、結局は何にも乱されないように整然と美しく進行しています。それを見る度に、神の力強い支配が狂いなく行なわれていることを思わされて安心します。伝道の書に「神のなさることはすべて、時にかなって美しい」(3・11)とありますが、まさに自然界こそそれを雄弁に証しているのではないでしょうか。それに比して人間世界の進行はとても美しいとは思えないのが現実です。ごつごつとあちこちにぶつかり、前進したと思えば、また逆戻りし、美しいどころか混乱こそが特徴だと思えてしまいます。

 二度の世界大戦の大破壊期、続く冷戦時代の分断を経て、世界はいよいよ武器放棄と平和と調和に向かうのかと期待されましたが、昨今はすっかり逆戻りの観があります。悲願の核兵器削減交渉は進まず、各国は逆に軍備拡大へと舵を切っています。安定を指導すべき米中露の大国がその混乱をあおってしまっては世界はいやおうなくそれに巻き込まれてしまいます。日本も戦後の国是としてきた絶対的平和主義を、積極的平和主義との詭弁のもと、歯止めを取り払ってご都合主義に変えようとしています。またシリヤの度重なる化学兵器使用など等、これらの世界の姿はみな人間性の劣化としか思えません。これらの現実を見るとき、果たして神の支配は?そして「時にかなって美しい」という神学はどう理解すべきかと思ってしまいます。答えは簡単ではありません。しかし神は愛と忍耐の時をゆっくり回しながら、人類を試しておられるということだけは確かなのではないでしょうか。
【聖書】

 エペソ 1・1~23

【説教】 「神の全能の力と共に」

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↓教会のコブシ
2018-04-10 コブシ

 昨日3日が、新潟市のサクラが満開となったと報じられていました。その如くほぼ県内どこでも満開状態になったのではないでしょうか。今は未だ若葉の緑を待っていますが、コブシやモクレンとサクラの木が林立しているところでは、こぼれるような白とピンクが合わさって見事な景観となっています。サクラ一色となるこの季節は日本中に春の喜びを届けています。そして確かにサクラは日本文化にはなくてはならない存在ですね。

 先週はイースターを記念しましたが、いのちの爆発を見せるこの春のすばらしさを眺めて、復活などあざ笑うこの世界も、もしかして・・と、耳と目を開き直す機会となるなら幸いです。主イエスの復活は「死は勝利に飲まれたり」と、この世界を縛っていた死が神のいのちによって打ち破られてしまったと告げます。また「死はもはやトゲを抜かれて」この世界を害することはできないものとなったと、その勝利を宣言します。

 2000年前に起こった主イエスの十字架の死と復活という出来事は、それまでの死の世界を一変させたというのが聖書のメッセージです。聖書の歴史においては、2000年前のこの事件は旧約の世界と新約の世界を分ける分水嶺となりました。旧約聖書は一言で言うなら、罪によって堕落した世界に死が入ってきたこと、そしてその死に深くおおわれてしまった世界を描きます。新約聖書は、この死の世界を打ち破るために救い主イエスが遣わされ、十字架によって罪と死を滅ぼし、回復されたいのちの世界が始まったことを描きます。しかし世界を二分する史上最大の出来事は、一般史においては全く無視され、2000年前の十字架と復活など、おとぎ話の類とされ、世界の隅の隅に押しやられています。無理からぬことですね。聖書だけがその意味を告げるからです。聖書を知らない世界はそれゆえ依然として死だけしか見えず、やがて訪れる死の影におびえています。しかし死が打ち破られ、今すでにいのちの世界に生かされていると知った私たちは死の世界に逆戻りすることなく、復活の信仰をしっかり握り、いのちの希望に生きる見本とされたいものです。
【聖書】

 ルカ 23・13~48

【説教】「父よ、彼らをお赦しください」

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