【聖書】

Iペテロ 2・9~17

【説教】「王として召された者たち」

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↓いもり池の紅葉
2017-10-19紅葉

 しばらく暑さが戻って夕方も半袖一枚で散歩ができました。半袖の散歩ももう今年は後わずかでしょうから名残を惜しみました。気持ちのいい陽気の中、でも秋アレルギーの人たちもけっこういるようで気が引けました。アレルギー源の一つとも言われるブタクサが話題となり、これがセイタカアワダチソウと類似していると知らされ、興味を持って田んぼ道を眺めました。そうしたら何のことはない、普段気にも留めないごくありふれた雑草がすぐ発見できました。共に侵略的植物の代表のように秋を覆っているわけですから、アレルギー力もさもありなんと納得しました。

 アレルギーと言えば、この5年の間にすっかり安倍政治アレルギーとなりました。いよいよ選挙が公示され、約1週間後に戦後史の転換点ともなるだろう重大な情勢が判明します。浮足立つ思いですが、しっかり落ち着いて主の御手の正しい裁きが下ることを祈らなければなりません。

 安倍政権は白々しくも今回の選挙の意義を「国難突破選挙」と掲げましたが、共産党の志位委員長が安倍首相こそ国難そのものと断じていることに同感です。安保法の時も、作家の森村誠一氏が、日本の「存立危機事態」とは安倍首相そのものだと声欄に寄せていたことを思い出します。横暴で放漫、不誠実な政権体質に今回こそ審判が下らなければ、一体国民の感性はどうなってしまっているのかと絶望的な気持ちになってしまいますが、果たして自分の感性こそおかしいのでしょうか? 

 聖書が、王たるものや政治的指導者に求めている資質は第一に能力ではなく、神と人に対する誠実さです。これはもちろん、政治だけではなく、どのような立場にある人間にとっても、神の前に永遠に変わらない原則です。政策こそ大事と言われますが、政策の前に人間としての道徳性こそがあるのです。それに取りうる政策の幅はわずかではないでしょうか。正義と公正そして誠実こそ、人生にとっても国家にとっても安心と祝福の土台です。政治の世界が道徳的に高められ日本の良心となるように、また真に王たる者が日本の指導者になるようにあきらめず祈りましょう。
【聖書】

ヨハネ 15・1~8

【説教】「そういう人は多くの実を結びます」

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軽井沢紅葉

 少しずつ温度が下がって季節は確実に冬に向かっていくようです。聖書によれば、春夏秋冬、そして昼と夜を造られたのは主であるとあります。夜や昼は一見すれば、あまり歓迎しかねるものと思えますが、そこは永遠の知恵をお持ちである方が造られたものである限り、必要かつ善なるものであると言わなければなりません。神の造られたすべてのものは善き賜物である限り、すべてのものの中に恵みを探すべく、少しずつ日が短くなり暗くなるこの季節をも喜び楽しみたいものですね。

 自然界の完全な予定調和とも言うべき安心に比して、人間世界はもっと複雑で不安定であることは誰でも感じることでしょう。今日本はこの10月の選挙に向かって騒然としています。予想もしなかった展開で、各政党・政治家だけではなく国民全体がカオスの中に投げ出されているようです。そして確かに今回の選挙は重要です。安倍的体質の政権がなお存続し力を増すのか、それとも良い意味のブレーキがかかるのか、戦後史の大きな節目ともなるようにも思えるからです。でも政治家たちの権力ゲームが先行し、それが露骨に繰り広げられているのは、政治の世界の逃れられない限界なのでしょうか。

 「都民ファースト」という清新なイメージで日本中を席巻した小池氏も、少しづつメッキがはげて「自分ファースト」と揶揄されるようになっています。実に「国民ファースト」とは重い重い試金石ですね。政治の世界もやはり最後はその人物が問われているのではないでしょうか。簡単にあきらめ見限ることなく、政治の世界が権謀術数の世界ではなく、「国民ファースト」を体現する、良心的道徳的世界にこそなることを祈らなければなりませんね。それが国民の責任として問われてもいることでしょう。政治家のレベルが国民のレベルとも言われますからそのまま私たちに返ってきます。事は政治家だけではなく、「自分ファースト」はあらゆるところに侵入し、巣食ってしまいます。他人の目の中のちりを非難して自己満足するものではなく、絶えず厳しく自己を見張って、主の目にかなうものでありたいと願わされます。
【聖書】

マタイ 22・34~40

【説教】「人生の意味は何ですか」

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↓キンモクセイ
2017-10きんもくせいS

 10月を迎えます。このところ秋らしい気持ちのいい日が続いてまさに秋の真ん中に入ろうとしています。春の5月、秋の10月、共に甲乙つけがたいものですね。神の備えた自然環境は、すべての生命にとって、ことに私たち人間にとっては計り知れないいのちの温床とも言うべきものではないでしょうか。このすばらしい季節、時々ゆっくりと外に出て秋からいのちをもらう如くに深呼吸したいものです。

 選挙のために今日本は騒然とし始めました。政治家たちの離合集散に心穏やかではありませんが、上なる主を見上げ、主の御心がなることを一層祈らなければならないと思わされます。今は日本だけではありません。北朝鮮がらみのアジア情勢、トランプ氏のアメリカ社会、そしてEUのヨーロッパも、政治的社会的に揺れ動いています。20世紀の大戦を経て、世界はきっと安定期に入っていくのだろうと思いましたが、そうはいかないようです。

 自然界において大地震が周期的に起こるとも言われるように、人間社会も常に変動を繰り返しながら未だ見ぬゴールに向かっているのでしょう。一体どういう未来にいくのでしょうか。とても予測は出来ません。しかし誰もが願う平和と安定という状況が現出することはとても楽観できないもののようです。日本も戦後70年を経て、大きな財産として曲りなりにも守られてきた憲法9条が見直されようとしています。不動とも思われた価値観が揺れ動いて、新しい価値観を模索しているのでしょう。でもどこへ向かうのでしょう。ある意味で人類はいつの時代も試されているということではないでしょうか。神のかたちにかたどって造られた人間が、どういう者になりどういう社会を造るのか。ノアの時代のように堕落することもできるし、主イエスが説いた神の国に習おうとすることも・・・。価値観が大きく揺れ動く中で、聖書が説く神の国の原理は永遠です。そしてクリスチャンたちはこの神の国の民として、地の塩、世の光となるべく、揺れ動くこの世に置かれています。この世と共に流されることなく、一層、御国の民として堅く立つことができますように。
【聖書】

詩編 139・1~18

【説教】「あなたの書物にすべてが、書きしるされました」

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↓エノコログサ
2017-09-20 エノコログサ

 稲刈りの終わった田んぼが日に日に拡大して、平場では稲刈りが終わるのももう時間の問題です。そしてちょうど秋分の日を過ぎますからこれからは一気に秋を駆け下りることになるのでしょうか。とは言え、迎える10月は天高く・・の秋の真ん中です。澄んだ空気の中、それぞれが恵みの秋を探す季節となりますように。

 爽やかな秋の真ん中へと書きましたが、政治の世界はにわかに雲行きが怪しくなり、フラストレーションの溜まる10月になってしまいそうです。安倍首相が来週の臨時国会冒頭での解散総選挙に踏み出すと報じられているからです。安倍政権が追いつめられ死に体になりかけていたことでしばらく安堵感を味わっていましたが、これでにわかにそれが打ち破られた思いです。森友・加計問題で丁寧な説明どころかひたすら死んだ振りをして批判をやり過ごそうとしていましたが、残念ながらそれが功を奏したのか、解散を決断できる状況になってしまったようです。新聞は、安倍首相による、安倍首相のための、自己保身のための解散選挙との社説を掲げていましたが、誰の目にもそれが見え見えでしょう。でもそれをさせてしまう今の政治的現状に歯がゆさともどかしさを感じていることもまた多くの人の共通の思いでしょう。この怒りが国民全体に共有され、自己保身と党利党略の傲慢と不誠実に正しい審判が下されるように願わずにいられません。しかし自民党の横暴を許してきた今までの連敗続きの選挙を見ると国民感情の頼りなさと不安定さを今から予想してしまう始末です。

 しかしここはいたずらに悲観的にならず、しっかりと上を見上げたいと思います。聖書によれば、立てられるすべての権威は上よりのものとあります(ローマ13章)。人間世界だけを見ていれば、力ある者の我が物顔にいらいらさせられるばかりで落ち着きを失ってしまいますが、見えにくくとも正義の神こそすべてのものの上にあって御旨に従って人を立て、人を廃するのです。敵の術中にはまることなく、信仰の戦いの武器を取りたいものです。
【聖書】

詩編 71・5~20

【説教】「人生の秋と神の御旨」

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↓ヤマハギ
2017-09-10 ヤマハギ2

 夏の終わりは寂しいと書きましたが、秋の進行と共に徐々に秋の気持ちに移行するだけではなく、更に秋を楽しむような前向きの気持ちに変化できるということは神が人間に与えた幸いな心身の調節機能というべきでしょう。変化に対して適応できるということは、計り知れない能力と言うべきではないでしょうか。この機能によって人間は様々なストレスにも対応していけるのですね。とは言っても半袖で過ごせるのはもうごくわずかでしょうから、この快適で貴重な季節を少しでも長く楽しみたいですね。

 暦は敬老の日を迎えます。季節の秋はまた人生の秋を考えさせるにふさわしい時として重なるのではないでしょうか。秋の真ん中に入ろうとしている私にとっても、人生の秋は大きなテーマになっています。社会的にも日本は今、超高齢化社会を迎えようとしています。ある意味で未曾有の社会的実験に向かおうとしていますので、政治と社会の重大なテーマとしても論じられています。平均寿命の驚くべき伸長は、長い人生を保証すると共に、一方では誰もが皆長い秋に直面させられるようになったということでもあります。自然界の長い秋は私には手放しで歓迎すべきことですが、人生の長い秋とは老年期が長くなるということですので、手放しというわけには行きません。老年期の明らかな問題は肉体的・健康的に弱さが増大していくことであり、誰もこの避けられない試みと向き合わなくてはなりません。そして社会的にも役割を終わったような寂しさが伴います。成長と増大に向かう青年期から、いのちの終わりに向かってだんだん弱くされ、一つ一つを失っていくような老年期はとても難しい時代と言わなくてはなりません。そしてこれは、一人ひとりにとっても未曾有の実験ですから不安です。しかし私たちへの励ましは、季節の秋を善きものとして創造された神であれば、なおのこと人生の秋を意味深い賜物として設計されたに違いないということです。夏から秋へと適応させ、秋の季節を楽しませてくださる神はまた、人生の秋にも適応させ、そこにある恵みに気付かせ楽しませてくださることを信じたいと思います。
【聖書】

出エジプト記 17・1~7

【説教】「私たちのエクソダス」

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2017-09-09 ススキ

 今年は今のところ残暑は厳しくなく、9月と共にすっかり秋の陽気に移行したように感じます。そんな中で私たちの心身も秋のモードにスムーズに移行できそうではないでしょうか。気がつけば、田んぼはもうほとんど黄金色になって、稲刈りが始まっています。私たちが気付かなくても隠れたところで、自然の営みがまちがいなく進行していることに改めて感動を覚えます。「時が来ると実がなる」という現象は、当然のように見過ごしてしまいがちですが、何という慰めに満ちた力強い真理でしょうか。確かに自然界を通して神が私たちに教えている真理は深くてあなどれないものですね。多分人間は未だそのほんのわずかしか知り得ていないのではないでしょうか。

 私の大好きな聖書の一節に「地は主の恵みに満ちている」(詩33・5)というみことばがあります。このみことがを読むたびに、神がこの地球を圧倒的な恵みによって取り囲み、支配しておられるという力強い保証を与えられるようで大きな安心を覚えます。私たちの目には恵みから洩れているような多少のいびつな現象が気になることがありますが、それらをはるかに覆って余りあるような神の恵みの宣言であり、何ものもこの恵みを打ち負かすことはできないとの、神の恵みの支配の高らかな勝利の宣言を聞く思いです。

 そしてもちろん聖書は、自然界に主の恵みが満ちていると言う以上に、それぞれの人生にこそ、恵みが満ちていると宣言します。主の関心は、自然界以上に、人間一人ひとりの人生にあることは慰めです。地が恵みに満ちているなら、なおのことそれぞれの人生に主の恵みが満ちているではないかと保証してくださっているのです。それゆえ、恵みを数えよ、その一つ一つを決して忘れるな、と続きます。この原理に一人として例外はありません。だから誰も、自分の人生には数えれることなど何もないと言える権利はないのです。何もないとしか見えない最も厳しい人生の現実にこそ、主はこのみことばを送っておられるのです。この信じがたくも幸いな保証に励まされて、それぞれが恵みを数え、恵みの勝利を歌う人生とされますように。
【聖書】

使徒 17・22~30

【説教】「わたしを見いだす者は、幸いを見つける」

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2017-09-03 洗礼式S

 朝晩は秋の気配がはっきりと感じられるようになりました。さわやかな冷気は夏の疲れを気持ちよく癒してくれるようですが、一方で暑さがだんだん寒さに移行していくのは寂しくもあります。でも多分良き実りの秋のためには、この冷気は無くてはならないことでしょうから、暑さ寒さ共に神の完全な知恵に従っているのでしょう。その神のよき計画に身をゆだねて、夏から秋へと私たちの心身もスムーズに移行できますようにと願わされます。

 今日は梅本姉の洗礼式です。異教社会の日本にあってはほとんど認知されていない式ですが、聖書においては人生における一番重要な式の位置を占めてもいます。そう言われると既に洗礼を受けて、この式を経過している当のクリスチャンたちも面食らってしまうものですが、聖書からその意味するところを一つ一つ辿るなら決して大げさではありません。これは神様の子どもとされる養子縁組式といえるものです。一般にはこのような式は聞いたことがありませんから、もっと実際的には、神の子どもとして生まれる誕生日に当ると考えた方が分かりやすいでしょうか。確かにバースデーはその人の人生の始まりの始まりですから、最も重く、厳粛で神秘的なものですね。しかし当の本人は赤ちゃんですから、何の自覚もありません。この日を何よりも喜んだのは両親ということになります。同じことが魂の誕生日でもある洗礼式にも言えるようです。もちろん受洗者は赤ちゃんではなくもう自覚的な年齢に達しているわけですが、目に見えない魂の新しい誕生を実感できないのが現状です。しかし聖書は肉体の誕生以上の素晴しい誕生が起こったと告げます。そしてこの日には天において、天の父と御使いたちの内に喜びの大爆発が湧き起こりました。そのように喜び迎えられた当の子どもたちの歩みはそれ以後もたたどたどしく、こんなんでいいのですかと申し訳なく思うことが度々ですが、天の父が我が子を見る喜びは誕生の日以来、決して変わることがないのです。こんなすばらしい父が私たちの父である限り、たどたどしい子どもたちも、きっと親孝行者とされていくのではないでしょうか。
↓キンミズヒキ
2017-08-29キンミズヒキ

 夏が終わります。前半は猛暑でしたが、その後は意外にも雨の多い不思議な夏でした。からっとしない日が多かった不完全燃焼の夏となりましたが、それでもこれが終わるのはいつもながら寂しいものです。しかし神様が地球に定めた四季の巡りは、計り知れない神の完全な計画であることを知っていますので、その流れを善きものとして身を任せたいと思います。この地球には大小のそれこそ無数ともいえるあらゆる生物が、この四季のサイクルの中にいのちの営みをしています。あるものはとても厳しい環境の中でさえもたくましくその生を全うします。その適応力・順応力というものは驚くべきもので全く舌を巻いてしまいますが、このような姿を知らされれば、小さな小さな虫が人間に何倍も勝った師のようでさえあります。これらは皆、神の作品として、確かに何一つあなどられるべきものはありませんね。

 この地球にはそれこそ膨大な数の生物が存在し、そしてそれらの一つ一つをこの地球の多様性を構成するものとして造られた神様の知恵はとても計り知ることが出来ません。しかし神様がそれら一つ一つをこの地球の構成員として配剤されたことを思えば、そこからは警告と共に大きな慰めに満ちたメッセージを聞くことができるでしょう。人間には意味が分からないとしてもどんな小さな一つも、無くてはならない完全な多様性の一員として存在しているということです。まして人間一人ひとりは微生物の比ではないと言うことが許されるのではないでしょうか。しかしこの地球における動植物世界の多様性と統一性に比べて、人間世界の多様性と調和は危険にさらされやすいものですね。自然界が多様性の中で落ち着いて調和していることに比して、人間世界はその多様性が争いの元となってしまうからです。子どもたちのいじめ問題、そして今またエスカレートしている大人社会の差別問題は、人類にとっては古くて新しい社会問題です。優劣の基準を人間が作り出してしまうからでしょう。一人ひとりは神の作品であり、その多様性は人間には決して侵すことの出来ない神の聖なる領域であることを肝に銘じたいものです。
【聖書】

Ⅱコリント 12・1~10


【説教】「肉体のとげ」

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 インドネシアの西カリマンタンで、聖書翻訳をしておられる塚田ツグー・真理子宣教師夫妻を迎えての礼拝です。

 証とみことばを通して主がお語りくださいますように、また宣教の重荷を分かち合うことができますように。

【聖書】

ピリピ 1・9~11


【説教】「霊的な成長」

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なつの夕暮れ

 雨が降ったり曇り空のお盆となりました。今夏は、梅雨の雨も長引き、からっとした夏の日が少なかったように思います。確かに毎年毎年同じ夏が繰り返されるわけではありませんから、変化や意外性は、人が支配していない自然にとっては当然でもありますね。暦の上では早や立秋を過ぎました。微妙な変化を楽しみに行く夏を惜しみたいと思います。

 終戦記念式典における天皇式辞と首相式辞を読み比べました。両者共に何となく型通りのように思えて物足りないものを覚えました。天皇は立場上、自由に発言できない制約があるでしょうから、これ以上の内容は期待できないのでしょう。首相式辞に反省という言葉が入れられなかったのは意図的だったのでしょう。未来志向の内容ということでした。しかしその未来志向が、なかなかアジアの地域にあってはすんなりとは進まず、最近の韓国の慰安婦像設置のエスカレートに見られるように、繰り返し、過去の問題が再燃してしまうのは残念で心が痛みます。反省や謝罪がこちらが思うようには伝わっていないということなのでしょう。

 壊れてしまった関係の修復・改善は悩ましい問題ですね。特にこちらに非がある場合、その関係改善はこちらがどうこうできるものというよりも、相手が主導権を持っており、相手の気持ちがなだめられるかにかかっています。こちら側としてはその断罪される立場に、ある意味でいつまでも甘んじなければなりません。そのためにフラストレーションが募り、相手への反撃感情が生まれてしまいかねません。でもそれを正当化してしまうことは大きな誘惑です。そういう意味では反省はここまでで、後は未来志向だとは割り切れないのではないでしょうか。反省や悔い改めはある意味で終わらないのです。それは非生産的な苦しみではなく、神に受け入れられるささげものです。神がそれをこそ希望へと祝福してくださると信じます。私たちは人間として、また同じ民族・国民として過去の罪に連帯しています。反省や悔い改めこそを国家の土台とし、日本がいつまでもへりくだった国でありますように。
【聖書】

ローマ 12・9~21

【説教】「平和をつくる人」

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暑い

 早や8月中旬です。暑い暑いと言うのも後わずかではないでしょうか。8月が過ぎると、今度は坂を転げ落ちるように冬に向かっていくように感じてしまいますので、この時季はいつも8月がずっと長く続きますようにと思います。残り少ない今年の夏を大切にしたいですね。

 72回目の終戦記念を迎えます。20世紀の世界にとって、そして何よりも日本にとっては決して忘れてはならない歴史の教訓です。多分日本の歴史が始まってからの最大の教訓とも言うべきものではないでしょうか。日本史が全部ここに集約したと言っても言い過ぎではないかもしれません。人間の愚かさと狂気、そして何よりも国家というものの恐ろしい性格があぶりだされた結果となりました。完全な敗北と無条件降伏は、日本を打ちのめすことになりましたが、これなくしては決して日本は曲りなりにも再生できなかったのではないでしょうか。

 神話がらみの天皇制国家、そしてそれを至上のものとして祭り上げ、利用する権力構造の危うさと欺瞞性に、初めて徹底的なメスが入れられることになりました。新憲法の制定と共に真の意味の民主主義が産声を上げ、よちよち歩きを始めたのです。それから70年、日本は奇跡的な経済復興によって国際社会に復帰し、敗北の屈辱を塗り替えることになりました。戦後の繁栄の中で日本は自信を取り戻しましたが、繁栄の陰で、戦争の教訓と戦争責任の問題は何となくうやむやのままにされ、もう自分たちはこの負の教訓を乗り越えたのだと思うようにもなったのではないでしょうか。新生日本と言いましたが、自分たちが戦争責任をうやむやにしたままなので、過去との決別が出来ず、それがずっと並存してきているのでしょう。そして今は揺り返しの動きが市民権を得て、歴史修正主義者たちが公然と発言をするようになりました。自分たちには義があったのだ、悪くなかったんだという動きです。もはや戦後ではないどころか、戦後は全く終わっていないのであり、戦前の亡霊が歩き続けているのです。国も国民も、戦争責任にしっかり向き合い続けることが、戦争を忘れないことですね。