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花

【聖書】
マタイの福音書2章 1-12節

【説教】
「ひれ伏した博士たち」
↓小平牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます

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【聖書】
マタイの福音書28章 11-20節

【説教】
「見よ。わたしはいつもあなたがたと共にいます。」
↓早津牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます

【聖書】
マタイの福音書1章 18-25節

【説教】
「その名はインマヌエル」

↓小平牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます


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2019-04-14 花

【聖書】
マタイの福音書1章 1-17節

【説教】
「系図でなされた宣教」(小平牧師)


2019年4月から、小平悟嗣(さとし)牧師になりました。よろしくお願いいたします。

2019-04-07 小平牧師S

【聖書】
マタイの福音書28章 11~20節

【説教】
「主イエスの宝物」
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【聖書】
Ⅱサムエル 16・1~14

【説教】

↓開花宣言直前の高田公園の桜
2019-03-31 ソメイヨシノ

 3月最後の聖日を迎えます。私にとっては現役最後の講壇になります。先週は教会の皆さんから過分な身に余る感謝会をしていただきました。感謝会に併せて遠方より兄姉たちが午前の礼拝から参加してくれました。懐かしい顔を前にして、若かった昔の日々に説教を聞いてくださった皆さんが、こうして今また年取った私の説教を聴いてくださっていることに大きな喜びと感動を覚えました。また礼拝で皆で讃美をしながら、今までは当たり前のようにしていた讃美の時ですが、とても貴重ないとおしい時に思えました。今度はもう少し気楽な立場での一年生として、この貴重な礼拝の心からの礼拝者でありたいと思わされています。

 この原稿もいよいよ最後になりました。今まで経験し学んできたことの最後を締めくくるのを何にしようかと考えましたが、すぐにテーマが浮かびました。それは神の前に砕かれ、謙遜であることが人生の全て、また信仰生活の目標であることを学んできたということです。多くのクリスチャンの経験もそうであるように、教会に通い始めてなかなか自分のこととして理解できなかったのは十字架のメッセージでした。これが分からないと本物のクリスチャン?にはなれないと焦っていた私に、約8カ月後、バイブルキャンプでメッセージを聞いていた時、主は私が全くの罪人であることを示し、激しく打ち砕かれました。目からうろこのごとく福音を完全に?理解しました。感謝と勝利の叫びが湧き上がりました。その時示された私自身の最大の罪とは「高慢」ということでした。これが原点でした。以来、事あるごとにこの原点に立ち返り、自分の高慢を悔い改め、神の前にへりくだることを学んできました。「心の貧しい者」の幸いを、主も第一の祝福として教えられました。

 今までの50年間の信仰生活で、多少なりともクリスチャンの躓きや残念な姿を見てきました。問題の根源はここに行き着くように思えます。謙遜な人はつまずきを乗り越えて成長していきます。使徒パウロも学び続けた「罪人のかしら」の道を生涯学び続け、へりくだって神と人とに仕えたいものです。
早津栄先生の牧師退任の感謝会が、礼拝後に開かれました。

先生は1972年に21歳で新井聖書教会に赴任されました。以来47年にわたる労苦に感謝するととともに、共に教会を支えてこられた由美夫人への感謝を込め、約60人が集いました。

涙あり、笑いありと、先生ご夫妻の人柄がうかがえる会となりました。

↓プログラム
2019-03-24 プログラム3

↓早津夫妻
早津夫妻S

↓岩澤さんの賛美
2019-03-24 岩澤賛美S

↓濁川夫妻の賛美
2019-03-24 濁川夫妻S

↓花束と記念品の贈呈
2019-03-24 花束S

↓手作り料理の数々
食事S

↓早津夫妻の賛美


2019-03-24 早津牧師説教S

【聖書】
ヨブ 3・1~221

【説教】


↓マンサク
2019-03-22 マンサク

春分を迎えました。私たち雪国にとっては9月の秋分は、残念ながら歓迎したくない客とも言うべき節季でしょう。それは未だ初秋というのにこれから日が短くなることを告げるからです。でも春分はその逆ですから、多分誰にとっても喜ばしい客として迎えられるのではないでしょうか。これから長くなる夕方の時間を有効に活用し、また楽しみたいものです。

私が担当するこの欄も多分、後2回となりました。毎週大体は水曜の午前にこの原稿を書くことにしていたのですが、説教作りのの金曜日と共に、やはり緊張とプレッシャーの時間でした。小さな貧しい原稿とは言え、牧師になってから47年間続けてきましたので、これが終わると思うと、大きな解放感と共に、少しの寂しさです。ですので今回と最後の1回は、これまでの歩みの中で特に教えられてきたことを取り上げたいと思います。

私にとって、神学的、思想的な教訓として大きな転機になったのは、いわば成功の神学から忍耐の神学への変えられて行ったことでした。固い表現ですが、言わんとしていることは誰にとっても身近で理解し易いものだと思います。私が牧師になったのは1972年です。70年代は高度成長期で、日本は繁栄の道を順調に上っている時でした。そして80年代への絶頂期へと向かいます。繁栄や成功は社会の合言葉であったように思います。この大きな流れの中で教会もまた時代の中にどっぷりとではないとしても避けがたく影響を受けていたように思います。キリスト教界においても、教会成長ということがもてはやされました。成長すること、あるいは成功するということは、神の祝福の証しとして絶対的な説得力を持って語られていたように思います。未経験な若造がそれに抵抗することなどできません。聖書の福音が成功の福音へと強調点がずれて大手を振って歩いていたと言わざるを得ません。しかし時の流れは少しずつ目を開かせてくれました。聖書の福音が苦難と忍耐をこそ中心の宝としていることを学ぶようになりました。成功の神学から忍耐の神学へ、それは逆説的ですが信仰の道に大きな平安をもたらすものになりました。
【聖書】3・1~21

【説教】
古庄御名美姉
「愛と喜びが心に満ちる」
2019-03-18古庄御名美


フクジュソウ

気がつけばもう回りの田んぼにはすっかり雪がなくなりました。今か今かと待っていた散歩の空間はもう十分広がっています。雪が消えたらと楽しみにしていた散歩ですが、この春は何やかやと忙しく、未だ一度もできていません。慌てて庭に出てみたら、マンサクとサンシュユがすでに花を咲かせていました。サクラとコブシももうすぐですね。2度と巡ってこない今年の春に置いて行かれないように、時間と気持ちの余裕を持ちたいものだと思わされます。

東日本大震災から満8年を迎えて、記念の報道が続いています。未曾有の大災害でしたが、当初は楽観していました。この進んだ今日の技術文化はすぐ復興を成し遂げるだろうと。しかしそれは進んだ文化に飼いならされた錯覚と楽観であったと今は思わされています。現実はいまだ大きな痛手にあえいでいます。現状ではまだまだ時間がかかって、元に戻ることは無理だろうとさえ思い知らされている状況ではないでしょうか。特に原発災害による被害は甚大でした。気の遠くなるような廃炉作業に象徴されるように、原発災害を克服していくことを見通せる人は、今の世界では誰もいないでしょう。

進歩と発展を続けて、文明の勝利をほとんど確信しつつあった人類に突きつけらた大きな挫折と言うべきではないでしょうか。何か大きな警告がなされているのでしょう。その一つは便利さを追求した飽くなき消費文化への警告と思われますが、しかしこの流れはとてもブレーキがかかりようが無いほどの大きな勢いで、益々スピードを速めてグローバル化した世界を覆っています。私たちはこの春の引越しのために、結婚してからの約35年分の家財の整理に追われました。気がついたことは、あれば確かに役立ちそうな多くのものが、ほとんど使われずに眠っていたということです。ですから無くてもいいものとして整理せざるを得ませんでした。聖書は「どうしても必要なものはわずかです」(ルカ10・42)と忠告します。不必要なものが押し寄せるこの時代にあって、時々立ち止まって心辺身辺の整理をしたいものです。

【聖書】3・1~21

【説教】
「キリストの受肉としての教会」
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三寒四温と言われますが、このところは順調に春らしい日が続いてスムーズに春に移行しているようです。何かあまりに順調で、あれ、これでいいのかなという気持ちがしないでもありません。でも春の嬉しさはそんな不安を直ぐ片隅に追いやってしまいますね。春を造られた主を讃美しながらこの季節を喜びたいと思います。

教会総会が終わってこの一年も新しい歩み出しをしようとしています。すでに何度も学んでいるように、教会の神秘性と不思議を度々思い起こしながらそれぞれが主のからだとして、更にその神秘性と不思議を学んで生きたいものです。目に見える建物としての教会は何の変哲もありません。特にキリスト教文化が根付いたヨーロッパに存在する壮麗な建築物と比べては、我が日本にあっては全く見る影もありません。一般の住居にも見劣りがするものです。またキリスト教人口がそれこそ0.1パーセントほどの日本にあっては、その地域にあって教会を探すことさえ困難で、教会のない市さえあります。

そんな日本にあって教会と出会ったということは先ず不思議なことではないでしょうか。建物を目にするということだけでも、何か日本にあっては貴重なように思えますが、中に入ったことがあるとなると更にそれが深まります。そして礼拝に出席したことがあるとなるともうそれは奇跡ですね。でもそうだといってもある人は素通りするでしょう。しかし私たちは素通りできなかったのです。このことの中に更に大きな神の奇跡を見たいと思います。その後の私たちはどうかというと、もう毎週教会に来るのが当たり前になっています。これはすばらしいことですが、当たり前過ぎてそこにある神秘性を見ず、感じずに過ごしてしまいます。神秘性とは、教会とはキリストのからだそのものとして、そこに神のいのちが流れているということです。神は教会を通していのちを供給しておられるのです。自分は教会によって生かされていると感じているでしょうか。これを本当に謙遜に実感していくことが、キリストのからだなるクリスチャンとしての成長であることを覚えましょう。
【聖書】
Ⅰコリント 12・12~27

【説教】
「地上に残されたキリストのからだ」



2019-02-24 妙高山

 3月を迎えます。春らしい日が続いて、もう雪が降らないような気配です。例年より半月位い早く季節が回っているのでしょうか。この分だと、今年のサクラは大分早まりそうですね。冬気分でうっかりしていると、季節に置いて行かれて、早春を見過ごしてしまうかもしれません。厄介な花粉症も併走しますが、部屋を出て季節を味わえれば幸いです。

 沖縄の県民投票では基地反対の圧倒的民意が示されました。戦後の沖縄の歴史における大きな転換点になりうる出来事として刻まれることと思いますが、現時点では、相変わらず土砂投入が続けられ無残な光景を見せつけられています。何事も無くこれで終わりとしてしまうことがないように続いて祈らなければなりません。憲法改正の国民投票よりも、これこそが日本全体が現状打開の国民投票をすべきテーマですね。そして与野党を問わず、国会がこう着状態を改善すべき議決をして、アメリカと向き合うことこそが政治家はじめ日本全体に問われていることと思えます。こうすれば良いのにとある意味では素朴に誰でもがわかっていることが、どうしてこうも動かないのでしょうか。

 原発再稼動等もしかりですね。おかしいと分かっているのに続ける、破綻していると分かっているのに続けるなんて悲しく虚しい限りです。権力って一体何ものなのかと叫びたい気持ちです。

 権力と言えば今、世界ではもう一つの虚しいことを見せつけられています。多くの国民を圧迫し、普通の感覚からは大犯罪者として裁かれるべき人物が、今、世界の英雄のようにマスコミでもてはやされています。北朝鮮のトップです。アメリカの大統領と共に、このおかしな2トップが世界の注目を集めるのも何か間違っていると思えてしまいます。世界全体が試されているのですね。私たちクリスチャンも、いったい神の支配と神の国はどこにあるのかと試されています。この世の神(サタン)はまるで、聖なる神の支配をあざ笑うように独り舞台を演じているかのようです。このような時代だからこそ益々、「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める」(ロマ2・7)神の民たちが求められています。
↓木々の「根開き」
2019-02-21 根開き

 「雨水」を過ぎていよいよ2月も終わります。冬の終わりを文字通り実感する時ですね。しかしこれから一気に春が規則正しく前進するというわけではありません。一進一退を繰り返しながら少しずつ前進します。ですから3月は私の印象では、「春になったというのに」の感が募るじれったい月でもあります。でも物事は一気には進まないと頭を冷やされる訓練の月として与えられているのでしょうか。

 物事がなかなか進まないのは人生の現実です。脚光を浴びた米朝会談は、ほとんど見るべき成果もなく、元のもくあみになりかけているようだし、拉致解決の見通しは、期待した分、更に遠のくような幻滅感です。北方領土交渉も同じような構図に振り回されて、こちらの独り相撲になってしまうようではないでしょうか。

 そして、てこでも動かない様相を見せている沖縄の基地問題です。今週は住民投票がなされます。事前調査は圧倒的に反対です。それはすでに何回も示された選挙結果からでも明らかなはずなのに、沖縄は望み薄な最後の手段に追い込まれています。政権の厚顔振りには呆れるばかりですが、それを許してしまっている日本の政治状況が悲しいですね。

 動かない、進まない状況が居座ると、悪い意味の学習状態に陥ってしまいます。諦めて前向きな思考ができなくなってしまうことです。最も嫌な精神状況ですが、人生のいろんなところにこの誘惑と危険が転がっています。確かにあきらめざるを得ないという厳しい状況があることが人生の現実ですが、しかし問題は何も考えようとしない状況になってしまうことです。政治的に見ればそれは支配者の奴隷になってしまうようなことであり、人生の教訓としてはこれまた出来事の奴隷となってしまうようなことではないでしょうか。神様はいつも「望みを抱いて喜び、絶えず祈れ」とチャレンジします。これがどんな状況下にあろうが、神様のスタンダードなのです。「さすがにこれはしょうがないね」と同情して、このレベルを下げることは無いのです。望みの主を打ち負かす現実は無いことを覚えて、いつも前を向きたいものです。
【聖書】
出エジプト記 19・1~6

【説教】
「祭司の国イスラエル」




雪解け3

 毎年楽しみに待っている2月19日の「雨水」が目前です。今年の妙高市の教会周辺は、積雪が多くても40センチ程度で推移して小雪でしたから、春の喜びは爆発的というほどではないとしても、それでも冬の終わりは嬉しいですね。未だ寒気の影響で気温が低いですが、それでも雪の降り方は春の雪に変わりつつあるようです。豪雪地帯といわれる私達の妙高山麓地も、このところは冬が少しずつ短くなっているように感じないでしょうか。嬉しいことですが・・・もろ手を挙げてというわけにはいかないのかもしれません。よく言われる地球環境の温暖化の危惧だけではなく、雪国人の気質もまた変化していくかもしれません。二ヶ月の冬も長いと感じて、忍耐気質も変質していくのは避けられないかもしれません。

 いつもながら私には2月の味わいは格別に思えます。ある面で寒さが厳しい冬の真ん中でありながら、しかし一方で春の兆しが見え隠れするのです。何ともいえない味わいではないでしょうか。3月は素晴らしい、でももう春がはっきり見えて、何か待つという喜びが失せてしまって、2月よりはスリル感とでもいう要素がなくなってしまうからです。ということは普段はあまり意識しませんが、待つということは人生の喜びの大きな隠れた要素だと教えられるように思います。このことは聖書が教える信仰の世界の味わいと通ずるものです。

 聖書のへブル書は、「信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものだ」と大胆に定義し(11・1)、ローマ書は、「目に見える望みは、望みではない、まだ見ていないものを望むという、この望みによって私たちは救われているのだ」と、これまた驚くべき定義をしています(8・24-25)。まだ見ぬことを待ち望むことによって救われるとは、普通の常識とは逆ですね。私たちは結果を見て、救われたと言うのではないでしょうか。でも聖書は、まだ見ぬことを持っていてこそ、あなたの信仰は生きるというのです。まだ見ていないことこそが、私たちには無くてはならない忍耐と希望の源であることを覚えて、信仰をささげたいものです。
【聖書】
申命記 33・1-5,26-29

【説教】
「しあわせなイスラエルよ」

↓早津牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます