↓ウワミズザクラ(妙高市松山周辺)
2017-05-10ウワミズザクラ

 南葉山からだんだん残雪が後退し、頂上まで緑が駆け上るようになりました。緑一色にもならんとする力強くすばらしい若葉の季節です。草や葉の色が基本的に緑色であるのはどのような神の知恵なのでしょうか。あまりにも慣れ親しんでいる木々や草の色ですが、神の完全な知恵が込められているのでしょう。普段厄介に思ってしまうありふれた草も、これまたこの地球においてどれだけなくてはならない存在なのかと思わされます。そうであれば草一つ一つにも隠れた意味があるようで何か暖かい気持ちにさせられるのではにでしょうか。

 注目されたフランスと韓国の大統領選が終わりました。両国とも課題山積で、選挙の熱狂はすぐ厳しい現実の試練へと移行していくことになるでしょう。これはもちろん今世界中のどの国も例外ではありません。その意味で指導者たちには大きな責任が託されることになりますから、彼らに神の助けがあるように祈らなければなりません。その指導者たちに求められていることは、高度な知恵であることはまちがいありませんが、それ以上に必要なことは国民を代表してその任に当たっているという謙遜さともいうべき知恵ではないでしょうか。ソロモンが即位した時、神に祈った第一の求めとは、民のために正しく治めることができるようにというこの謙遜な知恵でした。神はこの祈りを喜ばれ、ソロモンを大いに祝福し、助けられました。しかしいつの間にか権力は自己益、自己保存、自己主張へと変質してしまう危険をはらんでいます。良き出発が大きな幻滅の道を辿ってしまうのです。

 韓国の歴代大統領の多くもこの権力の誘惑に足をすくわれたといわれます。今気になっているのは日本の自民党政治と、その中心にいる安倍首相の姿です。支持率と安定多数を背景に憲法改正の持論を厚顔に主張し始めました。国会において丁寧に答えず、新聞を読めば分かると答える傲慢ぶりは、自己主張の政治をしているとしか思えません。日本は安倍国ではないと断固声を上げ、横暴な権力にいつの間にか引っ張られることのないように祈りたいものです。
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↓キクザキイチゲ(妙高市松山周辺)
2017-05-03キクザキイチゲ2

 5月を迎えます。高緯度地方では6月かもしれませんが、平均的な日本にあってはどれだけ賛美しても足らないようなベストシーズンではないでしょうか。柔らかい新緑、爽やかな風、次々と咲き出す花々、どれもみな心地よいものです。自然は時に厳しく怒るよな顔も見せますが、5月はどれもみな神の暖かい恵みを示すかのようです。このすばらしい季節、心ゆくばかりこの自然を抱きしめるべく、あるいは自然の懐に抱かれるべく味わい過ごしたいものです。

 聖書には、自然を題材にした教説が沢山です。そういう意味では自然界は人間にとっては偉大な教師としての役割を持って私たちを取り巻いていることになります。その様々な教えを集約している結論とは、詩篇19・1にある「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」という有名な宣言です。先に自然は偉大な教師といいましたが、もちろん自然自体が教師であるというのではなく、これを造られた背後にいらっしゃる創造者なる神こそ、この自然界を通して豊かに語っておられるのです。古来人間は、自然を畏敬し、この自然を母なる自然として宗教的な礼拝の対象としてきました。また自然と人間との一体に理想を求める汎神論と呼ばれる哲学思想も多くの人々から支持されてきました。それだけ皆、自然の美と神秘、そしてその力におのずと驚異と賛美をささげずにはおられなかったのです。

 しかし惜しむべきことは、このすばらしい自然の背後に、驚くべき知性とそして恵みと善に満ちた圧倒的な人格者を見ようとしないことです。聖書の論理は創造者なる神の存在はあまりにも明白ではないかというものですが、ここで人間はその明白さから目をそらそうとしてしまうのです。神なんかとても分かるもんじゃないという理屈を採用して、その結果、木や石や動物、そして自然自体を神として内なる宗教性を満たそうとします。しかしどんなに自然がすばらしいといっても、それはペットが与える慰め程度とも言えないでしょうか。人間の高度な宗教性が、人格なる神と出会うことが出来ますように。
↓国道18号、道の駅あらい付近の八重桜
2017-04-30八重桜

 ピクニックを予定していた先週の日曜日、気になる天気はほぼ快晴ながらかなりの低温との予報でした。晴れても寒いのはピクニックにはいかにも興醒めですので、何とか1度でも2度でも温度が上がりますように、できれば南風が吹きますようにとひたすらそのことを祈っていましたが、当日の明け方、南風どころかけっこうな大雨の音に耳を疑いながら起こされました。南風どころか逆の答えに気分は恨めしく沈みました。でも朝から雨なら返って迷わされずに屋内と決められるではないかと、気持ちを切り替えて慰めました。ところが天気は意外と回復し、前向きな何人かの兄姉にも考えは修正され、礼拝の終わる頃には野外ピクニックを決断していました。結果的には気温も思ったほど寒くなく、無事ピクニックを終えることができました。神様これがあなたの導きですか、と釈然としない思いながら、神様のあわれみを覚えながら感謝の帰途となりました。天気相手は一筋縄には行かないものですが、神様相手もお前の思い通りではないよ、と改めて考えさせられた一日でもありました。

 今朝の新聞に、沖縄の埋め立て工事再開が大きく報じられていました。有無を言わさずの政府の姿勢が露骨に回り始めました。沖縄の人々に寄り添いなどとは単なる時間稼ぎだったのかと怒りを覚えますが、沖縄の人たちは何度裏切られてきたことでしょうか。天気には温かみがありますが、政府にはただ粛々といった冷たさしか感じられないでしょう。期せずして今村大臣の「東北でよかった」発言が、今度ばかりは政府としてもかばいようがなく辞任に追い込まれたことが報じられていましたが、首相や官房長官のただ一辺倒に繰り返す辺野古移設最善発言は「沖縄でよかった」と言っているに等しく、辞任の抗議も起きないのが寂しいですね。沖縄と対話しないで米国とばかり対話している政府はまた日本全体の醜い姿でもあります。日本全体が「沖縄でよかった」と無責任に追随してきた歴史、仕方ないと言ってきたあまりにも大きな山が、少しでも逆方向に動き出すように祈りたいものです。
↓教会のライラック
2017-04-21ライラック

 春の嵐が続いて、もう少し楽しみたいサクラが早く散ってしまったところも多かったことでしょう。でもサクラと大風が重なるのはこれまた春の自然なので良しとしなければなりませんね。貴重なサクラのシーズンが終わろうとしていますが、今度は新緑と共に様々な花々が一気に咲き出し、サクラの喪失感を十分補ってくれるのではないでしょうか。この春の美しさを見れば、神様のご性質が義であり、善であるとともに、美なるお方であることも疑うことは出来ません。

 この美しく調和の取れた自然界に比して、人間社会が美しく保たれるためにはなんという労力が必要なものなのかと、最近は考えさせられることが多いのではないでしょうか。二度の大戦の教訓を深刻に刻んで再出発した世界は、平和という価値観が切実なものとして共有され、それによって曲がりなりにも安定を築いてきたように思えますが、ここに来て安定の主役であったヨーロッパやアメリカに、全く予想もしなかったナショナリズムが台頭し、それが象徴するように、今世界の状況を表現するために、分断ということばが盛んに使われるようになっています。

 先日はシリヤの化学兵器使用に対する最大限の抗議であったとは言え、アメリカがまさかの大々的なミサイル攻撃を敢行しました。目にあまるアサド政権に対する牽制として、どこか溜飲を下げるような思いが生じたことも禁じ得ませんが、でも一方で冷静に考えれば、今まで慎重に封印されていた武力行使があっという間に解き放たれてしまった瞬間であったとも言えるのではないでしょうか。今ミサイルのような近代兵器が一たび発射されれば、一瞬にして大破壊がもたらされます。70年前の大戦の比ではありません。その武力映像を見ながら、武力戦争の戦慄を改めて覚えさせられました。今政府は新安保法制をまとめて時代に適応した安全保障体制を整備したとの高揚感の中にあるようですが、戦争の教訓を忘れた軽さを覚えずにいられません。国民全体が武力という一時の高揚感の誘惑を断じて拒否する冷静さを試されていることを覚えさせられます。
2017-04-16イースターS

 今年の春は少し天候が不順ですが、今私たちの地はちょうどサクラが満開です。日本ではあまりにも慣れ親しんだ風景でもありますが、でもこれは一年に一回きりの光景ですから、数えてみれば、長寿の人でさえ100回にも満たないのですから、貴重な風景でもありますね。約10日ほどの花期を過ぎれば、今度は来年までのほぼ一年間、万人に愛でられるこの時期とは対照的にほとんど目立たない木としてひっそりとたたずみます。風雨にさらされながらその場を動かずじっと耐える植物たちの忍耐は、これまた花期以上の称賛ものではないでしょうか。

 今年はちょうど桜の満開時にイースターを記念します。サクラに代表される春の自然界は、まさにいのちが爆発しているようです。聖書に、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。・・・話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り」(詩篇19)とありますが、まさにこの春は神のメッセージが響き渡っているようではないでしょうか。そのメッセージとは、神は尽きないいのちに輝く世界を造られたということです。

 創世記には、神が創造のわざを終えてすべてのものを見られた時、「見よ。それは非常に良かった」と記されています。すべてが美しく完璧だったのです。その意味することは、そこには、死は一つもなかったということです。しかしこのいのちの世界に死が入ってきました。それは人間の罪の故ではありましたが、それは途中からの侵入物であり一時的なものに過ぎません。しかしこの死が今や我が物顔にこの世界を支配しているかのようです。死こそ元々からあったこの世界の動かすことの出来ない最強の支配者だというメッセージこそ、この世が作り出した最大のフェイクニュースです。全人類の罪の身代わりとなって十字架に死なれたイエス・キリストは、罪と死を滅ぼしてよみがえり、今やこの世界をもう一度、創世記以上のいのちの世界に取り戻して下さったのです。復活の主を見上げることによって、この世界を覆っている偽りのニュースに立ち向かいたいものです。