↓矢代川沿いの桜
矢代川の桜

 気がつくと、日一日と緑が増えていきます。聖書が言う如く、まさに「眠っている間に」春は活発に動いているのですね。いよいよ新緑の本番を迎えます。やわらかい緑が徐々に一面を覆うようになるこれからの約一ヶ月は、いつもながらこのまま時間が止まってほしいと思う楽しみな季節です。残念なことは、あっという間に過ぎてしまうことですね。

 自然ののどかさに比して、内外の政治社会状況は大きな変化を予感させ、気になる状況が沢山です。近付く南北会談、米朝会談を中心に、それを取り巻く世界に何か大きな変化が起こるのかどうか、重要な歴史的瞬間を迎えているともいえます。この重要な時期に、しかし安倍政権は気もそぞろといった状況ではないでしょうか。ここに来て5年間の安倍政権の膿が次々と暴露されて、政権の足もとが大きく傾きかけているからです。政権の1強状況がおごった強権的私物化政治を招いたと盛んに論評されていますが、まさにその通りでしょう。今までは強い政権に忖度しているように見えた政権支持側のマスコミまでが遠慮せずに報道しているかに見えます。しかし不誠実な政権を追いつめるべきこの時、我が米山知事のスキャンダル会見がなされ、辞任の方向であることが報じられました。原発慎重政策に期待していただけに、足元をすくわれたような痛手感がありますが、会見の誠実さには同情を覚えました。本人は無念でしょうが、しかし正直に罪を認めて責任を取ろうとする態度に、「この人は大丈夫だ」と、再起を応援したいと思いました。

 しかし一方の政府の態度は全く対照的です。繰り返し嘘を平気で強弁し続け、それでいて「信なくば立たず」を平気で引用する無神経ぶりには、つける薬がないとあきれるばかりです。政治家どころか人間辞任ものだと思ってしまいます。聖書は能力ではなく、正直と誠実、そして正義と真実こそ人間のいのちと教えます。誰でも失敗や罪から自由ではありません。そこにうその誘惑が入ります。罪は隠す時ますますその奴隷となります。しかし隠さず告白する時、もはや罪はその力を失い、私たちは憐れみを受けて勝利者となれるのです。
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↓教会のライラック
2018-04-15 ライラック-2

 満開のサクラがだんだん散り始め、葉ザクラとなりつつあります。またこの季節は無情にもよく春の嵐も吹き荒れてしまいますので、サクラのいのちはそれとの戦いのようでもあります。でも自然界はそのことも織り込み済みなのでしょう。多分サクラは満足感と共に今年の使命を終えて次の花々に舞台を譲るのでしょう。教会の庭ではもうライラックが咲き始め、そして新緑の季節になりつつあります。春は変化が早いのでそれがうれしくもありますが、またそれについていけないのが残念でもあります。

 自然界は多少の前後はあったとしても、結局は何にも乱されないように整然と美しく進行しています。それを見る度に、神の力強い支配が狂いなく行なわれていることを思わされて安心します。伝道の書に「神のなさることはすべて、時にかなって美しい」(3・11)とありますが、まさに自然界こそそれを雄弁に証しているのではないでしょうか。それに比して人間世界の進行はとても美しいとは思えないのが現実です。ごつごつとあちこちにぶつかり、前進したと思えば、また逆戻りし、美しいどころか混乱こそが特徴だと思えてしまいます。

 二度の世界大戦の大破壊期、続く冷戦時代の分断を経て、世界はいよいよ武器放棄と平和と調和に向かうのかと期待されましたが、昨今はすっかり逆戻りの観があります。悲願の核兵器削減交渉は進まず、各国は逆に軍備拡大へと舵を切っています。安定を指導すべき米中露の大国がその混乱をあおってしまっては世界はいやおうなくそれに巻き込まれてしまいます。日本も戦後の国是としてきた絶対的平和主義を、積極的平和主義との詭弁のもと、歯止めを取り払ってご都合主義に変えようとしています。またシリヤの度重なる化学兵器使用など等、これらの世界の姿はみな人間性の劣化としか思えません。これらの現実を見るとき、果たして神の支配は?そして「時にかなって美しい」という神学はどう理解すべきかと思ってしまいます。答えは簡単ではありません。しかし神は愛と忍耐の時をゆっくり回しながら、人類を試しておられるということだけは確かなのではないでしょうか。
↓教会のコブシ
2018-04-10 コブシ

 昨日3日が、新潟市のサクラが満開となったと報じられていました。その如くほぼ県内どこでも満開状態になったのではないでしょうか。今は未だ若葉の緑を待っていますが、コブシやモクレンとサクラの木が林立しているところでは、こぼれるような白とピンクが合わさって見事な景観となっています。サクラ一色となるこの季節は日本中に春の喜びを届けています。そして確かにサクラは日本文化にはなくてはならない存在ですね。

 先週はイースターを記念しましたが、いのちの爆発を見せるこの春のすばらしさを眺めて、復活などあざ笑うこの世界も、もしかして・・と、耳と目を開き直す機会となるなら幸いです。主イエスの復活は「死は勝利に飲まれたり」と、この世界を縛っていた死が神のいのちによって打ち破られてしまったと告げます。また「死はもはやトゲを抜かれて」この世界を害することはできないものとなったと、その勝利を宣言します。

 2000年前に起こった主イエスの十字架の死と復活という出来事は、それまでの死の世界を一変させたというのが聖書のメッセージです。聖書の歴史においては、2000年前のこの事件は旧約の世界と新約の世界を分ける分水嶺となりました。旧約聖書は一言で言うなら、罪によって堕落した世界に死が入ってきたこと、そしてその死に深くおおわれてしまった世界を描きます。新約聖書は、この死の世界を打ち破るために救い主イエスが遣わされ、十字架によって罪と死を滅ぼし、回復されたいのちの世界が始まったことを描きます。しかし世界を二分する史上最大の出来事は、一般史においては全く無視され、2000年前の十字架と復活など、おとぎ話の類とされ、世界の隅の隅に押しやられています。無理からぬことですね。聖書だけがその意味を告げるからです。聖書を知らない世界はそれゆえ依然として死だけしか見えず、やがて訪れる死の影におびえています。しかし死が打ち破られ、今すでにいのちの世界に生かされていると知った私たちは死の世界に逆戻りすることなく、復活の信仰をしっかり握り、いのちの希望に生きる見本とされたいものです。
2018-04-10イースターエッグ

 寒かった今年の冬を挽回するような20度にもなる陽気が続きました。サクラはすでに開花を過ぎて満開のニュースもすでにあちこちから届き始めました。こちらのサクラもこの分では異常な速さになるのではないでしょうか。教会のコブシの花芽も急に膨らんで、今にも咲き出しそうな勢いです。どちらにしてもすばらしい楽しみな春が一気に全開になろうとしています。春を讃えずにいられません。

 今週はイースターです。主イエスの復活の記念がちょうど自然界の春と重なりますので、私たちにはその意味が一層捕らえやすいのではないでしょうか。春は自然界の全面をいのちの輝きが覆います。冬の冷たい世界が一変して、一気に暖かいいのちの世界によみがえるようです。

 確かに自然界をも造られた神様はこの春を通しても重要な真理を告げておられるのでしょう。そのメッセージとはもちろんいのちの力強さです。私たちは聖書と出会うことによって初めて主イエスの復活という出来事を知らされました。初め私はこれを無視していました。とても本気で相手にすることではないと思えたからです。それどころかこんなことを書いているようでは聖書の信頼性が損なわれてしまうからできるだけ人々の目に触れないように、聖書の片隅追いやろうとしていました。ところが聖書とキリスト教を知るにつれ、イエスの死と復活こそ聖書の中心であると知るようになりました。文化ショックを越えた大きな衝撃でした。でも目からうろこの転換をもたらすことになりました。それまでは誰も当然の如く真理と考えているように、結局は皆死ぬのだ、死こそ一番確かな結末だと思っていました。ところが聖書のメガネを与えられて世界を眺めたとき、この世界はまるで違って見えるようになりました。もしかしたら死で終わりではないのではないか。本当はいのちの方が強いのではないかと。そして見れば見るほどそうに違いないと確信するようになりました。なんという幸いな転換をもたらしてくれたことでしょうか。死におびえる世界から、死を超えた希望の世界へと生まれ変わったようだからです。
↓桜のつぼみはまだ固い
桜のつぼみS

 春分の日を迎えます。これから少しずつ日が長くなるのが楽しみです。教会の庭ではサンシュユが満開です。日本名は「春黄金花・ハルコガネバナ」とも呼ぶそうですが、その如く他に先立って春を告げる春一番の樹木に思えます。サクラのように若葉に先立って木全体が花だらけとなります。黄色の小さな花なので目立ちませんが、近付いて見れば見事です。サクラのように愛でられないのが少し可愛そうでもありますので、しっかり見てあげなくてはと思います。
 
 今週は教会暦では受難週です。主イエスが、全世界・全人類のすべての罪を背負って十字架の上で身代わりの死を遂げられたことを記念しています。このイエス様が自らを犠牲として成し遂げ、買い取ってくださった赦しの上に、世界と人類は乗っかって生かされています。しかし当時のゴルゴタの丘では、多くの群集はこの厳粛な死を物見遊山的に見物し、さらにこの聖なる方に向かってののしり、嘲笑し、動物をなぶり殺すような異常な興奮に満たされていました。これは一人ユダヤ人の姿ではなく、聖なる神と人類が十字架を隔てて全く対照的な姿を示している縮図です。罪を悲しみその罪を何とか清算しなければと心砕いておられる神の心と、そんなことにはまるで無頓着に、むしろ罪を責められることなど余計なお世話と、聖なる神を抹殺しようとする人類の心が衝突していたのです。この構図は残念ながら天地創造以来の神と人間の変わらない物語です。

 今世界の風潮は、きよいことや正しいことよりも、自分の利益本位の露骨な権利主張が大声で叫ばれているように思えます。人類をリードする政治家たちがそれを主導しています。人類の道徳性は大きな揺り戻しを見せているようです。2000年前の主の十字架の大事業は、当時と変わらず依然として踏みにじられ続けていると言わなければなりません。でも主は今も変わらず、「父よ。彼らをお赦し下さい」と取り成し続けておられます。十字架の心を知った私たちは、罪を離れ義のために生きる姿をもって、この世界にあって少しでも光と塩の役割を果たしたいものです。