↓雪で白くなった南葉山(11月10日)
2017-11-17 南葉山

 11月の半ばを過ぎます。木々がだんだん葉を落とし、美しい紅葉の世界が残念ながら少しづつ無色の世界に変わっていってしまいます。確実に冬が近付いていますね。今週は雪の可能性も報じられています。殺風景になるこの季節ですが、小鳥たちは葉を落とした木々で盛んに動き回っています。葉に変わって今度は小鳥たちが主役のようで、寂しい冬を励ます存在ではないでしょうか。

 横綱の暴行事件が報じられて角界が揺れています。角界ばかりではなく日本中の相撲フアンにとっても大きな衝撃でしょう。個人的には私も日馬富士のフアンなのでとても残念です。詳細は良く分からないので軽率に評せられませんが、進退問題は避けられないでしょう。改めて一人の人間が善く人生を全うすることの難しさを思わされます。特に有名人であれば、普通の人以上に一挙手一投足さえ注目されるのですから、その難しさは倍加されます。その中でフアンの期待に答え続けることは至難の業でもありますね。過ちは過ちとして、今まで努力して築いてきた名誉にふさわしく、善き終わりであって欲しいと願います。

 いつもわが身に重ねて度々心に留めている警告が次の聖書のみことばです。「正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ」(箴言25・26)。きれいな泉のような正しい人生が、どこかで汚く濁ってしまう幻滅としてこれを受け止めています。悪者に屈服するとは、私たちの人生の前に待ち構えている罪の誘惑に足を取られてしまうことと解釈しています。本当に身につまされる危険ではないでしょうか。誰もの人生に、私たちを打ち負かそうとして、罪が隙を伺っているというのが聖書の警告です。誰もこの人生の危険から自由ではありません。「好事魔多し」とのことわざにもある如く、順調な時や大丈夫と思う時こそ気をつけなければならないでしょう。先回も聖徒ダビデの祈りを紹介しましたが、謙遜に弱さを認め、罪を恐れて神の助けを油断せずに祈ることなしには誰も善き人生を全うできないことを肝に銘じたいものです。
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2017-11-13 高田城

 平地の紅葉が今最盛期です。先日は20度ほどもあり、気持ちのいい小春日和でした。時間が許せばこんな日はずっとすばらしい紅葉の中にいたいものですね。春の新緑と共に秋の紅葉はいつまで見ていても飽きないすばらしいものです。美においても完全である神様が、この世界に究極の絵を描いて私たちを喜ばせておられるようです。

 自然界の美とはアンバランスなように残念ながら人間世界には醜いことが沢山あります。国や民族間の紛争や相次ぐテロ事件と共に、人間個人に関わる様々な罪の姿が報じられます。最近は全く驚がく的な連続殺人の実態が連日報じられています。とても人間業とは思えない所業に、言いようのない衝撃を誰もが感じていることでしょう。しかも犯人は事件の様子を淡々と語っているということです。確かにこのような事件は特別中の特別なものでしょう。そうでなければなりません。しかし全くの別次元として無視してしまうことは出来ません。

 と言うのも誰もが人間として、このような特別な人間とも感じてしまうその人間性を共有しているからです。600百万ものユダヤ人をガス室に送り込んだナチスドイツの中枢人物も、その裁判での印象はごく普通の人間であったとも報じられていました。私たちと変わらない同じ人間がこのような悪魔的ともいえる大罪の当事者ともなるのです。この同じ人間であるということが、後味の悪い不安や恐怖を覚えさせるのではないでしょうか。人間の良心をも食い殺してしまうな何か強大な悪の力が存在しているのですね。この事実の前に私たちは先ず真の恐れを持って人生に備えなければなりません。聖書の中で聖徒中の聖徒と言われるダビデさえ、どうか神の霊がいつも心を守り、罪を恐れる謙遜な魂としてください、そうすれば大きな罪を免れるでしょう、と神に祈りました。聖書は強大な悪の力に対抗し得るものは、自分の力ではなく、絶えず聖なる神につながって、その御言葉を心に宿す以外にはないと言います。神とその御言葉につながることだけがいのちであり、安全です。ダビデの祈りを共に日々の祈りとしたいものです。
↓桜の紅葉
2017-11-03 桜の紅葉2

 先日31日、牧師会のために柏崎に向かいました。柿崎線で今年初めて、約30羽ほどの白鳥の群れを確認しました。今年はこちらは暖かなので飛来は遅れるのかなと思いましたが、私が目にするのは例年よりもむしろ早いように思います。いよいよ冬の到来と、心を決めなければなりませんね。これから約5ヶ月、殺風景なこちらの冬を共に過ごしてくれるうれしい仲間として歓迎したいと思います。

 31日はちょうど宗教改革記念日でした。この日の牧師会では聖書の新翻訳出版を記念して、翻訳責任者から新しい訳の特徴を講演していただきました。近代自国語聖書の翻訳は、宗教改革時代になされたルターのドイツ語訳聖書から始まります。我が日本では江戸時代の鎖国が終わって、キリスト教宣教が始まってから約150年を数えます。そして明治時代に初めて聖書が日本語に翻訳されました。それは何と記念すべき歴史であったことかと思います。一世紀にイエス・キリストによってキリスト教と聖書がもたらされてから約1900年後に、初めて東洋の我が日本に聖書の光が届くことになったのです。

 ヨーロッパでは既に当然の光であった聖書が、私たちの日本ではおよそ2000年間もそれを知らずに過ごしてきたのです。もちろんその間も歴史は進行し、文化も発達してきたわけですが、しかし聖書を知らない闇が2000年間も覆っていたことを思うと複雑な気持ちになります。日本の精神的遺産に聖書が欠けていたことは、日本人と国家の形成にやはり大きな影響があったと思わざるを得ません。天皇制の精神的な核として国家神道的なものが厳然とて生き続けていることを、ことに宮中祭祀の様子などを見るにつけ、クリスチャンの立場としては深い闇を見ざるを得ません。でも今は少なくても誰でも聖書を手に持つことが出来ます。たといクリスチャン人口が1パーセントにも満たないとは言え、聖書という書物が日本で自由に流布する限り、必ずやこの「本の中の本、バイブル」に出会う人がいるでしょう。2000年間の闇を償って余りある光となって、これからの歴史を変えていくことを祈りましょう。
↓燕温泉、惣滝
2017-10-28惣滝1

 ちょうど10月が終わり、これからは晩秋そのものの11月を迎えます。冬を前にした雪国にとって真に貴重なこれからの一ヶ月ではないでしょうか。今のところ気温は未だそれほど下がらず暖かく感じます。南葉山はようやく上の方が色づいてきました。これからはいよいよ一気に下に降りて来るのでしょう。冬を前に穏やかで美しい11月となりますようと願います。

 先週は超大型台風の北上と衆院選挙が重なり、10月末はまさに嵐の中の日本列島となりました。台風は予想通り日本各地に爪あとを刻みましたが、選挙の方は終わってみれば、拍子抜けしたような自民の圧勝となりました。結果だけを見れば大荒れどころか今までの体制が少しも変わらず、むしろそれが強化されたような順風無風の選挙のようだったともいえるでしょう。しかしその実は水面下では激しい大嵐が吹いていたとこそ言うべきではないでしょうか。

 ある識者が今回の選挙は関が原だと評していましたが、これからの日本にとって分け目ともなる歴史的選挙だったと見ることは大げさではないでしょう。私には安倍首相の表情がそれを象徴しているように思えます。大勝にも関わらず彼に笑顔はありません。それは自分自身への批判票によって、必ずや議席減に見舞われることは避けられず、それを最小限に食い止めるための選挙と覚悟して臨んだのに、結果は実質的には前回よりも議席を伸ばすことになったからです。気持ち悪い不安が彼を捕らえているのではないでしょうか。そうあって欲しいと思います。決して信任されるはずはないのに、数だけ見れば手放しで信任されているような不安。この不安を感じてこそ正常であり、この不安と向き合いつつ恐れつつ、謙虚な政治をして欲しいと願うからです。このギャップを見誤れば、それこそ予想していた正常な転落が厳しく彼を待つことになるでしょう。いずれにしても私たち国民は天下分け目ともなる重大な選挙結果を与えました。最も危惧するのは憲法改悪です。特に権力の側にある首相と為政者たちが、数には現れない国民の声にも謙虚に耳を傾け、謙遜で良心的な政治を行なうように祈らなければなりません。
2017-10-27 午後3時20分

 朝の温度が15度を切るようになり、ストーブを使い始めるようになったのではないでしょうか。でも未だ日中は時に半袖でも良さそうな時もあり、弱くなりかけている太陽の暖かさが身にしみる季節でもあります。また気温の1度、2度の変動の価値が実感される季節でもないでしょうか。地球温暖化議論で、よく気温の1度、2度の変化が重大な地球変動になると言われますが、そのことになかなか実感が伴わず、想像力を働かせずにいますが、この時季に重ねれば、1度の大きさが少し想像できるようにも思います。

 いよいよ衆院選挙の投票日を迎えます。既に大方の予想が自民の圧勝と報じられていることに、全くの驚きと失望と共に興覚めを禁じえませんが、しらけ、あきらめてしまう誘惑に屈することなく、しっかりと行く末を見守らなくてはなりませんね。先の気温の1、2度の価値以上に、一票の価値など無いに等しいと誰でも思ってしまいます。しかし道は遠くても一票の積み重ねが、それでもかろうじて民主主義を守っているという価値を失わないようにしたいものです。

 というのも隣の中国では今もこの一票さえ国民には与えられていません。共産党の一党独裁体制が70年も続いているのです。ちょうど今は5年に一度の共産党大会が開催されて、その行く末にマスコミの注目が集まってもいます。一党独裁体制は揺るがず、それがますます強化され、更に習主席への権力集中と絶対化が進むであろうということが大方の予想です。

 この時代に何という時代錯誤かと思ってしまいますが、時代の鬼子とでもいうべき体制がしぶとく生き続けて、自由にものを言えない息苦しさがこの大国を覆っています。その原因こそ権力の絶対化にあるでしょう。これを書いたのは権力の恐ろしさと危うさを何としても回避しなければならないからです。この5年間、私には全く不思議ですが、自民党に異常なほどの数の力が与えられました。その結果目に余る国会運営によって、危惧すべき重要法案が強行採決されてきました。経済の好調よりも権力の墜落と横暴が抑制され、謙虚な政治が行われることこそが国の土台ではないでしょうか。