↓ヤマハギ
2017-09-10 ヤマハギ2

 夏の終わりは寂しいと書きましたが、秋の進行と共に徐々に秋の気持ちに移行するだけではなく、更に秋を楽しむような前向きの気持ちに変化できるということは神が人間に与えた幸いな心身の調節機能というべきでしょう。変化に対して適応できるということは、計り知れない能力と言うべきではないでしょうか。この機能によって人間は様々なストレスにも対応していけるのですね。とは言っても半袖で過ごせるのはもうごくわずかでしょうから、この快適で貴重な季節を少しでも長く楽しみたいですね。

 暦は敬老の日を迎えます。季節の秋はまた人生の秋を考えさせるにふさわしい時として重なるのではないでしょうか。秋の真ん中に入ろうとしている私にとっても、人生の秋は大きなテーマになっています。社会的にも日本は今、超高齢化社会を迎えようとしています。ある意味で未曾有の社会的実験に向かおうとしていますので、政治と社会の重大なテーマとしても論じられています。平均寿命の驚くべき伸長は、長い人生を保証すると共に、一方では誰もが皆長い秋に直面させられるようになったということでもあります。自然界の長い秋は私には手放しで歓迎すべきことですが、人生の長い秋とは老年期が長くなるということですので、手放しというわけには行きません。老年期の明らかな問題は肉体的・健康的に弱さが増大していくことであり、誰もこの避けられない試みと向き合わなくてはなりません。そして社会的にも役割を終わったような寂しさが伴います。成長と増大に向かう青年期から、いのちの終わりに向かってだんだん弱くされ、一つ一つを失っていくような老年期はとても難しい時代と言わなくてはなりません。そしてこれは、一人ひとりにとっても未曾有の実験ですから不安です。しかし私たちへの励ましは、季節の秋を善きものとして創造された神であれば、なおのこと人生の秋を意味深い賜物として設計されたに違いないということです。夏から秋へと適応させ、秋の季節を楽しませてくださる神はまた、人生の秋にも適応させ、そこにある恵みに気付かせ楽しませてくださることを信じたいと思います。
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2017-09-09 ススキ

 今年は今のところ残暑は厳しくなく、9月と共にすっかり秋の陽気に移行したように感じます。そんな中で私たちの心身も秋のモードにスムーズに移行できそうではないでしょうか。気がつけば、田んぼはもうほとんど黄金色になって、稲刈りが始まっています。私たちが気付かなくても隠れたところで、自然の営みがまちがいなく進行していることに改めて感動を覚えます。「時が来ると実がなる」という現象は、当然のように見過ごしてしまいがちですが、何という慰めに満ちた力強い真理でしょうか。確かに自然界を通して神が私たちに教えている真理は深くてあなどれないものですね。多分人間は未だそのほんのわずかしか知り得ていないのではないでしょうか。

 私の大好きな聖書の一節に「地は主の恵みに満ちている」(詩33・5)というみことばがあります。このみことがを読むたびに、神がこの地球を圧倒的な恵みによって取り囲み、支配しておられるという力強い保証を与えられるようで大きな安心を覚えます。私たちの目には恵みから洩れているような多少のいびつな現象が気になることがありますが、それらをはるかに覆って余りあるような神の恵みの宣言であり、何ものもこの恵みを打ち負かすことはできないとの、神の恵みの支配の高らかな勝利の宣言を聞く思いです。

 そしてもちろん聖書は、自然界に主の恵みが満ちていると言う以上に、それぞれの人生にこそ、恵みが満ちていると宣言します。主の関心は、自然界以上に、人間一人ひとりの人生にあることは慰めです。地が恵みに満ちているなら、なおのことそれぞれの人生に主の恵みが満ちているではないかと保証してくださっているのです。それゆえ、恵みを数えよ、その一つ一つを決して忘れるな、と続きます。この原理に一人として例外はありません。だから誰も、自分の人生には数えれることなど何もないと言える権利はないのです。何もないとしか見えない最も厳しい人生の現実にこそ、主はこのみことばを送っておられるのです。この信じがたくも幸いな保証に励まされて、それぞれが恵みを数え、恵みの勝利を歌う人生とされますように。
2017-09-03 洗礼式S

 朝晩は秋の気配がはっきりと感じられるようになりました。さわやかな冷気は夏の疲れを気持ちよく癒してくれるようですが、一方で暑さがだんだん寒さに移行していくのは寂しくもあります。でも多分良き実りの秋のためには、この冷気は無くてはならないことでしょうから、暑さ寒さ共に神の完全な知恵に従っているのでしょう。その神のよき計画に身をゆだねて、夏から秋へと私たちの心身もスムーズに移行できますようにと願わされます。

 今日は梅本姉の洗礼式です。異教社会の日本にあってはほとんど認知されていない式ですが、聖書においては人生における一番重要な式の位置を占めてもいます。そう言われると既に洗礼を受けて、この式を経過している当のクリスチャンたちも面食らってしまうものですが、聖書からその意味するところを一つ一つ辿るなら決して大げさではありません。これは神様の子どもとされる養子縁組式といえるものです。一般にはこのような式は聞いたことがありませんから、もっと実際的には、神の子どもとして生まれる誕生日に当ると考えた方が分かりやすいでしょうか。確かにバースデーはその人の人生の始まりの始まりですから、最も重く、厳粛で神秘的なものですね。しかし当の本人は赤ちゃんですから、何の自覚もありません。この日を何よりも喜んだのは両親ということになります。同じことが魂の誕生日でもある洗礼式にも言えるようです。もちろん受洗者は赤ちゃんではなくもう自覚的な年齢に達しているわけですが、目に見えない魂の新しい誕生を実感できないのが現状です。しかし聖書は肉体の誕生以上の素晴しい誕生が起こったと告げます。そしてこの日には天において、天の父と御使いたちの内に喜びの大爆発が湧き起こりました。そのように喜び迎えられた当の子どもたちの歩みはそれ以後もたたどたどしく、こんなんでいいのですかと申し訳なく思うことが度々ですが、天の父が我が子を見る喜びは誕生の日以来、決して変わることがないのです。こんなすばらしい父が私たちの父である限り、たどたどしい子どもたちも、きっと親孝行者とされていくのではないでしょうか。
↓キンミズヒキ
2017-08-29キンミズヒキ

 夏が終わります。前半は猛暑でしたが、その後は意外にも雨の多い不思議な夏でした。からっとしない日が多かった不完全燃焼の夏となりましたが、それでもこれが終わるのはいつもながら寂しいものです。しかし神様が地球に定めた四季の巡りは、計り知れない神の完全な計画であることを知っていますので、その流れを善きものとして身を任せたいと思います。この地球には大小のそれこそ無数ともいえるあらゆる生物が、この四季のサイクルの中にいのちの営みをしています。あるものはとても厳しい環境の中でさえもたくましくその生を全うします。その適応力・順応力というものは驚くべきもので全く舌を巻いてしまいますが、このような姿を知らされれば、小さな小さな虫が人間に何倍も勝った師のようでさえあります。これらは皆、神の作品として、確かに何一つあなどられるべきものはありませんね。

 この地球にはそれこそ膨大な数の生物が存在し、そしてそれらの一つ一つをこの地球の多様性を構成するものとして造られた神様の知恵はとても計り知ることが出来ません。しかし神様がそれら一つ一つをこの地球の構成員として配剤されたことを思えば、そこからは警告と共に大きな慰めに満ちたメッセージを聞くことができるでしょう。人間には意味が分からないとしてもどんな小さな一つも、無くてはならない完全な多様性の一員として存在しているということです。まして人間一人ひとりは微生物の比ではないと言うことが許されるのではないでしょうか。しかしこの地球における動植物世界の多様性と統一性に比べて、人間世界の多様性と調和は危険にさらされやすいものですね。自然界が多様性の中で落ち着いて調和していることに比して、人間世界はその多様性が争いの元となってしまうからです。子どもたちのいじめ問題、そして今またエスカレートしている大人社会の差別問題は、人類にとっては古くて新しい社会問題です。優劣の基準を人間が作り出してしまうからでしょう。一人ひとりは神の作品であり、その多様性は人間には決して侵すことの出来ない神の聖なる領域であることを肝に銘じたいものです。
なつの夕暮れ

 雨が降ったり曇り空のお盆となりました。今夏は、梅雨の雨も長引き、からっとした夏の日が少なかったように思います。確かに毎年毎年同じ夏が繰り返されるわけではありませんから、変化や意外性は、人が支配していない自然にとっては当然でもありますね。暦の上では早や立秋を過ぎました。微妙な変化を楽しみに行く夏を惜しみたいと思います。

 終戦記念式典における天皇式辞と首相式辞を読み比べました。両者共に何となく型通りのように思えて物足りないものを覚えました。天皇は立場上、自由に発言できない制約があるでしょうから、これ以上の内容は期待できないのでしょう。首相式辞に反省という言葉が入れられなかったのは意図的だったのでしょう。未来志向の内容ということでした。しかしその未来志向が、なかなかアジアの地域にあってはすんなりとは進まず、最近の韓国の慰安婦像設置のエスカレートに見られるように、繰り返し、過去の問題が再燃してしまうのは残念で心が痛みます。反省や謝罪がこちらが思うようには伝わっていないということなのでしょう。

 壊れてしまった関係の修復・改善は悩ましい問題ですね。特にこちらに非がある場合、その関係改善はこちらがどうこうできるものというよりも、相手が主導権を持っており、相手の気持ちがなだめられるかにかかっています。こちら側としてはその断罪される立場に、ある意味でいつまでも甘んじなければなりません。そのためにフラストレーションが募り、相手への反撃感情が生まれてしまいかねません。でもそれを正当化してしまうことは大きな誘惑です。そういう意味では反省はここまでで、後は未来志向だとは割り切れないのではないでしょうか。反省や悔い改めはある意味で終わらないのです。それは非生産的な苦しみではなく、神に受け入れられるささげものです。神がそれをこそ希望へと祝福してくださると信じます。私たちは人間として、また同じ民族・国民として過去の罪に連帯しています。反省や悔い改めこそを国家の土台とし、日本がいつまでもへりくだった国でありますように。