アジサイ

 梅雨入り宣言が目前です。今日は関東甲信まで梅雨入りとなるという予報でしたが、甲信越の越に入る新潟はしばらく雨マークがないので一緒の宣言とはならないのでしょうか。関東方面から新潟に来た学生たちが、新潟の梅雨は梅雨らしくない空梅雨ですねとの印象を同じように語っていたことが意外でしたが、そうなのかもしれません。こちらでは既に冬に、十分な降水量とどんよりした天気が続いてきたわけですから、梅雨には少し相殺される恵みなのかもしれません。いずれにしても約一ヶ月の雨の季節です。雨に歩調を合わせ少しペースダウンしながら、一年の折り返し点を静かに歩むのもいいのではないでしょうか。

 このところこの欄ではどうしても日本の政治的状況の話題となってしまいます。もう一年以上にもなるモリカケ問題が依然として収束せず、国民全体が釈然としない思いの中に放り込まれているからです。その原因は、遅ればせながら次々と内部文書がそれでも公にされてきたことにより、問題の構図が国民の目にはもう疑いようがないようにさらされているにもかかわらず、当の政府がそれを認めないという一事に尽きるのではないでしょうか。不誠実にごまかし逃げようとするその姿に、怒りがあきらめに変わってしまいかねない危機を感じます。ごまかし逃げ切れると踏んでいるような政府がいつまで許されるのでしょうか。麻生大臣の傲慢な姿勢をとがめる人もいない政治的状況に、与党の政治家たちが皆良心を売って死んでしまっているといわざるを得ませんが、それを国民が選んで1強状況を作り出しているのですから何ともやりきれない思いです。先日は加計学園の事務局長なる人物がぽっと出てきて、これまたとぼけた会見をマスコミの前で公然としたことにも驚かされました。日本中がこの人物の顔をあきれて見つめたことでしょう。箴言には「支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる」(29・12)とあります。この人も上を真似しただけなのでしょう。私たちは今政治的危機以上に道徳的危機と戦うように試されているのでしょう。
スポンサーサイト
2018-05-24 バラのトンネル2

 6月に入ります。風薫る5月から雨の月に変わります。爽やかな5月に比してどうしてもうっとうしい季節として歓迎されませんが、水田を初め植物界にとっては圧倒的な恵みの季節というべきなのでしょう。また乾燥地帯の地域にとってはまことに羨ましい日本ということになるのではないでしょうか。雨を造られ、恵みの雨として降らせる神様を覚えながら、6月もまた恵みの月として迎えたいと思います。

 アメフト問題で連盟は、前監督とコーチに対して除名という厳しい処置を下しました。大方の理解では当然という受け止めではないでしょうか。無防備な相手選手に対して明らかにルール違反の危険なタックルを命ずるなんて、素人目にはまったく殺人を命ずるに等しいと思えます。こんなとんでもないことが放置されるなんてあってはならないことであり、除名で済まされるとも思えません。このような悪が衆目の中で公然とプレー化するに到った原因の一つは、やはり組織の中に沈殿し続けた勝利至上主義ともいえる価値観ではなかったでしょうか。それが実績をもたらした監督によってますます強化され、誰も異を唱えられないような体質が出来上がっていったようです。そのことは、自分たちは何も考えずに監督に従うことを良しとしていたという、日大選手一同の反省表明文にも明らかにされています。選手たちはもうこの監督のためにプレーしていたという悲しむべき状況でした。しかしその組織の中にあっては立ち止まることなどできず自分でも良かれと思ってひた走っていたのです。

 どこかカルト宗教に通じますね。悲しいかなこれはまたどのような組織にもまた個人の人生にも通ずる教訓です。今まさに日本の政治の中枢で、自民1強という権力の集中化によって似たような横暴と黙従ともいえる状況が繰り広げられています。日本全体が安倍政権のためにプレーさせられているといったら大げさでしょうか。国民による除名判断こそが求められているといえないでしょうか。いつの間にか自分を正当化するプレーヤーになりやすい私たちも、自らを除名にしつつ歩む覚悟が必要ですね。
稲

 田植えの終わった田んぼが回りを取り囲むようになりました。待ちに待った雪解けと春の景色が、早や初夏の風景に入れ替わります。今年ももう中盤です。いつもながら過ぎてみると、時の流れはあっという間です。時には止まったり、普段よりはゆっくり打っても良さそうなのに、お構いなしに非情とも言える規則正しさです。しかし聖書はむしろ恵みの時が刻まれていると解説します。これから向かう中盤も神から与えられる恵みの時として受け取り味わっていきたいものですね。

 アメフト問題で、異例とも言える渦中の青年の公式会見が報じられました。包み隠さない正直な告白が全国に中継されました。この一事で問題の全容がほぼ伝えられたのではないでしょうか。この青年の抱えた追いつめられた苦悩に誰もが同情を覚えたでしょう。そのような窮地に立たせた上に立つ者たちの責任は重大です。しかし両者の対照はいっそう際立つものともなりました。青年はあるべき良心と正義の存在を、身をもって証しました。その姿を見ながらある意味で日本中が襟を正されたのではないでしょうか。それに比して範を示すべき権威者たちはなんという体たらくでしょうか。一大学のこととは言え、大人社会の欺瞞を映し出しているようです。

 今日の新聞の川柳に、「真実を隠す卑怯な大人ども」とありました。このような姿が今、あちこちでさらされています。ことに日本の良心となるべき政治の中枢で、対照的な姿が連日報じられています。同じ川柳には「徹底してしらばっくれようこの件は」とありました。森友・加計問題で、もう一年も真実を語らず逃げ続けている政府の姿勢への風刺が続きます。安倍首相は青年の会見をどう見たでしょうか。国民に見え見えのうそと見透かされているのに依然としてうそを強弁する神経に、同じ人間とは思えない不思議さを覚えますが、嘘で逃げ切れると見くびられている日本国民が悲しく、怒りを覚えるべきなのでしょう。「人の振り見て我が振り直せ」と言われます。今、政治は最大の反面教師です。良心と正義の前にいつも我が襟を正したいものです。
2018-05-03 夕焼け

 5月も半ばを過ぎて、先日は半袖で過ごせる暑い日にもなりました。そして風景は新緑から深緑へと移り変わります。いつもながらその変化ができるだけゆっくりでありますようにと願いますが、梅雨前までのこの貴重な季節を満喫したいと思います。
 
 アメリカ大使館移転の暴挙に伴うパレスチナとイスラエルの衝突が報じられています。無力なデモ隊に向かって実弾射撃をするイスラエルに大きな怒りを覚えます。そんな悲劇をよそに、災いの種を蒔いた張本人であるトランプ大統領が、イスラエルとパレスチナ双方に平和があるようにとテレビメッセージを送っている姿にはただあきれるばかりです。そしてこのような暴挙を止められない国連の姿を見れば、やりきれない無力感にとらわれてしまいます。トランプ大統領誕生とその政策実行の支持母体として、アメリカの福音派が大きく関わっていると言われます。そこにアメリカ福音派の独特の不思議な闇を見るようですが、他人事ではありません。私たちは同じキリスト者として聖書解釈のあり方を常に点検し、独善的傾斜を常に戒め、健全な社会正義の感覚を養わなければならないと自戒させられます。

 今週はちょうど主イエスが復活して天に帰られてから、今度はイエスの代りに聖霊がこの地上に降られ、一人ひとりのクリスチャンたちに宿られたことを記念するペンテコステ(聖霊降臨祭)です。神様が独り子である主イエスを通して成そうとされた救いの大事業は、このペンテコステをもって完成を画する出来事でした。すなわちその意味することは主を信じる者たちの内に聖霊(三位一体なる神様のもう一つのお姿)が宿ることによって、一人ひとりを天に帰られたキリストに代って、小さなキリストとして誕生させることでした。罪人に過ぎない者たちが一体、キリストになると言うのか?と、信じがたい大事業ですが私たちはこれを信じます。平和と正義への無力感が覆っているこの世界にあって、小さなキリストたちこそが、一人ひとりは亀の如くであっても、キリストの心を実践する世の光たり得ますように。
↓教会のエゴノキ
2018-05-16 エゴノキ1

 5月も半ばを迎えます。新緑も深まって、今はもう南葉山の頂上まで緑が這い上がるようになりました。様々な花も咲き出して、追いつけないほどです。教会の庭ではヤマボウシの白い十字の花がちょうど満開になり、エゴの木の白いつぼみがふくらんで今にも咲き出しそうです。そして店先は今カーネーションの季節です。

 母の日は改めて親について考えてみるよい機会でもあります。親子の関係については世の中にも多くのことわざがあります。「子を持って知る親の愛」「孝行したくとも親は居ず」などは、よく知られた誰でもの共通の感慨ではないでしょうか。これらから伝わってくるのは、親というものはなかなか報われることの少ないものだという悲哀のようなものでしょうか。大体はどの親も我が子のため精一杯、できるだけのことをしようとします。しかしそれにふさわしく報いられるかといえば、とてもそれはつりあってはいないものでしょう。ある場合には子どもによって大きな悲しみを受けることさえ親にとっては平均的なこととも言えるのではないでしょうか。

 ある親の心の痛みが以下のように表現されていました。「できるだけのことをしたんです。精いっぱい愛しました。でも今、娘は生まれてこなかったほうがよかったといいます。自分の問題はすべて私たちのせいだと責めます。」身につまされる悲しみですが、親の限界と悲哀を典型的に表しているともいえます。親はこうあってほしいと願いますが、それを強要することは出来ません。子は親に似るものだといわれますが、多くの親が実感していることは、いかに自分と違っているものかということではないでしょうか。確かに親たちは自分とは違った自由意志を持った子どもを授かったのです。この関係はちょうど神と人間の関係をも映し出しています。父なる神は人間を創造しましたが、反逆する自由を尊いものとして付与されました。与えた自由のリスクを背負いながら、じっと我が子らを愛し続けておられるのです。親であるとはこの神の愛を教えられ続けることであり、ここに恵みもまた隠されているのですね。