【聖書】

 エレミヤ 29・1~14

【説教】

 「あなたのために立てられた、将来と希望の計画」

 早津 栄牧師

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説教:あなたのために立てられた将来と希望の計画 by Heavens Gate on Mixcloud


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ゴーヤ


 猛暑のピークが過ぎてこれからは残暑の季節へと移行していくのでしょう。連日の暑さ報道を聞きながら不思議に思うことの一つは、どれだけ暑くても40度がほぼ上限のようであることです。北よりも南がもっと暑くなっても良さそうなのに、九州や四国もそれ以上にはならないようです。零下の幅は広いですが、暑さの方は熱帯のアマゾンもほぼこのレベルというのは不思議ですが、これもまた天の配剤なのでしょう。しかし今夏はあちこちに木々の半枯れ化が見られました。それだけ植物にとっても厳しい暑さだったのでしょう。

 先日、日本の防衛をめぐっての特集番組がありました。討論者の意見は二分されました。一方は、もっと防衛力を高めて備えなければならないという主張で、他方は、これ以上防衛力の拡大をすべきではないというものでした。それぞれに根拠があり、これからもずっと二分される悩ましい問題です。これらは結局、人間をどう見るかにかかっていると言えます。一方は人間や国家は楽観的に信じるべきではなく、侵略の可能性をいつも計算していなければならないとするもので、他方は、それ以前の対話や理解の可能性を重んずる立場です。悩ましいと言ったのは、人間性の本質はこれら両面を持っているからです。特に悲しいかな、侵略的な悪を併せ持っている人間性の負の現実は聖書の人間論においても明らかだからです。この現実がある限り、防衛力の温存と強化は、国家の無視できない使命とさえ言えるでしょう。

 先日もブラジルの佐藤宣教師から相変わらずの悩ましいブラジルの治安状況を聞かされました。ブラジルでは高い塀を張り巡らすことは当然であり、押し入られたり、物を取られたりする方が悪いといった感覚が常識でさえあるということです。自己防衛のためにお金と労力を注がなければならないのです。私たちは高い塀のブラジル社会や、銃保持のアメリカ社会を安全保障のモデルとせざるを得ないのでしょうか。しかしたとえ困難でも、塀と銃を克服していくべきということが、聖書のメッセージであると信じます。
【聖書】

 使徒 26・16~18

【説教】

 「彼らの目を開いて」

 佐藤浩之牧師

↓佐藤浩之師の説教(三角印をクリックすると音声が流れます)

説教:彼らの目を開いて(佐藤浩之師) by Heavens Gate on Mixcloud



 佐藤浩之宣教師の紹介

 1943年千葉県に生まれ、19歳のときにブラジルに移民。アマゾン滞在中にカナダ人宣教師に導かれて入信。25歳で献身。新潟聖書学院と日本基督神学校を卒業。

 奉仕神学生時代から朝顔教会の故・井出定治師の指導を受け、神奈川県相模原市にある麻溝台キリスト教会の開拓伝導に従事し、卒業後は同教会の牧師として数年間の奉仕。教職籍は今も麻溝台キリスト教会に属している。

 1977年、南米宣教会からブラジルに派遣され、第1期目はルージラモス教会で5年間の奉仕。この日系人教会は成長して会堂建築を達成し、自給自立教会となって後任牧師を迎えた。

 1984年、ガルーリョス市でゼロから開拓伝導に着手。この教会は11年間で自給自立教会に成長し、宗教法人となり、土地会堂を取得して、後任牧師を迎えた。

 1995年から、オザスコ師で開拓伝道に着手。この教会も10年間で自給自立教会に成長し、宗教法人となり、土地会堂を取得して、後任牧師を迎えた。現在は、オザスコ教会の協力宣教師をしつつ、サンジョゼー教会、ビラソニヤ教会、カンポグランデ教会などの日本語伝導を応援し、日系キリスト教連盟にも協力している。
稲穂

 猛暑が続いていますが、ここ数日、夜は真夏でも、朝方には秋の冷気の訪れを感じます。そしてまた残念ながら、日が短くなっていることも確実です。やはり立秋は名のみの暦だけではないのですね。早や秋? と少し寂しくなりますが、でも予報はまだまだ残暑が続くということですから、暑さに気をつけながら夏を楽しみたいと思います。

 7、8月としばらく平和について考えてきました。誰もが認める人類の理想と願いでありながら、ガラスのように壊れやすい現実を考える時、先回も書いたように人間性の本質を考えざるを得ません。平和を壊す大きな要因の一つは、人間一人ひとりの狭く小さな心にあることは明らかです。それは寛容でおおらかであることの反対です。それをさらに突き詰めれば、私たち人間の内には皆、人への恐れがあるということです。大げさに言えば、みな対人恐怖症を病んでいるのです。レベルは違っても誰も人間関係に苦手を意識しているのではないでしょうか。この人への恐れは、本能的に防衛反応となり、相手への不信感を産む土壌となります。

 不信感とは実に厄介なものですね。どれだけ小さな心から来る不信感の独り相撲が物事を負の方向に引っ張っていることでしょうか。「人を見たら泥棒と思え」とはバランスを教えた世間知だと思いますが、人間の悲しい現実をも教えています。世界がこのことわざしか知らなければ、当然、世界に平和はありません。

 残念ながら、近隣のある国々は、マスコミを通して他国への不信感をあおることを国是としています。信じないことによって自分の守りを固めることは、最低限の平和を保障するかもしれませんが、決して幸福ではありません。日本の平和憲法の前文は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と宣言します。軍備の代わりに信じることを土台にすると謳っているのです。聖書もまた不信の世にあって、信じることをもって世の光となれと勧めます。おとぎの国の憲法と笑われようが、このスピリットをこそ守りたいものですね。
 【聖書】

 マタイ 5.1~16


 【説教】

 「平和を作る人」

 早津栄牧師

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ひまわり

 8月に入ってのようやくの梅雨明け宣言ですが、まだ雨もよく降りますので、今年はカラッと感のない夏になるのでしょうか。見上げる山もよく雲がかかっていて、登山愛好家には気になる今年の夏山ですね。

8月は特に日本では過去の戦争を記念する行事があちこちで持たれます。戦後70年を迎えようとしていますが、世界は未だ戦争を克服できずにいます。ソビエトの崩壊によって、約半世紀も続いた長い東西冷戦の時代が収束に向かい、人類に希望を予感させましたが、世界にはまた新しい紛争の種が次々に生まれて、本当に一筋縄には行かないものだと誰も実感しているのではないでしょうか。人間の歴史は争うためにあると言えるほどですね。

それは突き詰めれば、聖書が言うように、人間性の本質に行き着きます。私たちは誰も頭では平和を唱え、これを絶対の理想としているようですが、からだが事あるごとに無意識のうちに好戦的な反応をしてしまう動物と言えないでしょうか。それはまるでコントロールできない本能のようです。尖閣等の領土問題が報じられる時に、日本人である私たちの内に自然に生じる思いとは、相手はけしからんという防衛反応ではないでしょうか。

これはどの国民にとっても理屈を越えた本性と言えるでしょう。ですから私たちはあるべき理想や真理に対して、からだと言うか、もう一人の自分が分断されているようです。パウロの有名な告白の通りです。彼は「私は、自分でしたい善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」(ロマ7・15)と告白し、それを解説して、私の内には善への願いがあっても、それより強い悪が宿っているという原理を認めざるを得ないと言いました。

聖書の主張はシンプルで明快です。敵は、相手や相手国ではありません。それぞれの内に巣食っているこの悪の原理(罪)です。私たちは本能的に相手が悪いと言う性質を持っているのです。そんな感傷的なことを言って、一体この紛争の世界に通用するものかと政治家たちは笑うでしょう。しかしそれぞれが自らの内にあるこの罪の原理と戦うこと無しには、どんな条約も本能の前では無力なのです。
この原理に目をふさいでいる限りはにおうち
【聖書】

 マタイ 7・1~12

【説教】

 「平和への唯一の道」

 早津栄牧師

↓早津牧師の説教(三角印をクリックすると音声が流れます)

説教:平和への唯一の道 by Heavens Gate on Mixcloud

↓高田公園西堀のハス
高田公園はす

 猛暑と猛雨がこのところの気象現象として報じられています。共に人間が支配できないものなので、その状況の中で上手に付き合っていくことしかできません。しかし私たちにとっての拠り所は、自然界に対する主の恵みの支配は世の終わりまで決して揺るがないであろうと信じれることです。自然界とは主の恵みを圧倒的に力強く証ししているものだ、と聖書が繰り返し保証しているからです。

 この自然とは、主の恵みを期待しながら付き合っていくべきことが人間に与えられていることですが、それに反して、また原発のことを考えさせられます。何度も言っているように、これとは上手に付き合っていく相手ではないと誰もが感じているのではないでしょうか。しかしここに来て電力会社はいっせいに再稼動を申請し、政府もまた追認しようとしています。泉田知事の頑なともいえる態度は救いです。福島事故が依然として収束せず、それどころか予期しない新しい問題に次々に翻弄されて、解決策も解らず、手探りの状態にあるのに、一体どのような神経で自分たちには原発運転ができると言えるのでしょうか。

 再び事があったら一体誰が責任を取れるのか?という問いには、政府も会社も真剣に向き合おうとはしていないのでしょう。それは万が一の可能性だ、自然災害に準ずるような問題だから、それを考えていたら何もできないということでしょうか。政産界一緒の無責任体質を考えさせられます。

 先の戦争も、首脳たちの無責任体質によってズルズルと終結が先き伸ばしにされ、ヒロシマ、ナガサキの悲劇につながったと言われます。また最近の柔道連盟の醜態も見ながら、改めて責任感覚ということを考えさせられます。これは他人事ではなく、自らに帰ってくる問題です。責任感覚とは微妙でまた難しいものですね。個人がどこまで?という問題が多いからです。でも一方でそれを言い訳にする誘惑には気を付けなければなりません。神の前で、健全な責任感覚を訓練され、自らの内にある無責任体質と戦いたいものです。