【聖書】
マタイ 7・13~21

【説教】
「狭い門、細い道」

↓早津栄牧師の説教(?印をクリックすると声が流れます)

説教:わたしの名で呼ばれる者たち by Heavens Gate on Mixcloud

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もみじ紅葉

 少しずつ葉が落ちて殺風景が進む中、平地の紅葉が今盛りです。赤、黄、だいだい等、やはりこの色合いは人間業ではありませんね。春の新緑と共に、願わくはこの時期の色合いもまたこのまま止まって欲しいと思わせられます。しかし葉が落ちた景色の中で私たちを励ますものがあります。小鳥たちは、葉が落ちていかにも寒々しい尖った木の枝で、悠然としているようです。冬が秒読みですが、私たちの心身にも温かい羽毛が生えて冬を楽しめるようでありたいものです。

 フィリピンの台風惨禍の報道が続いています。地球の台風街道に立地して慣れているとは言え、今回は最大級とのことです。今一番緊急の支援を必要としている状況下、思うようには届かないもどかしさを世界が注視していますが、その中でも子どもたちの笑顔や、現地の人々やボランティアの奮闘等、希望の光も報じられています。

 確かに人類はこれまでもそうであったように、これからも様々な難題を乗り越えていかなければならないものですね。私たち宗教人にとっては、いつもながら一体神は何をしているのか?との問いの前に立たされるわけですが、私たちの拠り所は、それでも神の恵みは人類とこの地球を覆っており、それが希望の源だと伝える聖書のみことばです。ダビデは、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」(詩篇23・6)と神への信仰を告白しました。聖書中最も慰めに満ちた大胆なみことばの一つです。このダビデの信仰こそ、全人類を招く神の約束であると信じます。ここでダビデは全人類を代表して神の前に立っています。何故なら彼は神の恵みと祝福に値する特別な善人ではなく、人類を代表する一人の罪人に過ぎないからです。それでも神の守りと祝福は取り去られることはない、いやそれどころか、神はあなたを恵もうとして追いかけているというのです。私たちはこの不安定な天変地異の世界、またそれぞれの困難な人生で何を見るかを問われています。不安定に見えるからこそ、恵みの神とその希望のみことばへの信仰に招かれているのです。
【聖書】
イザヤ13-1~7

【説教】
「わたしの名で呼ばれる者たち」

 早津栄牧師

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2013-11-14南葉山

 今年の初雪ながら南葉山の中腹まで雪が降りてきました。例年より早いようですが、感動と共にいよいよ冬の使者を迎えたという思いです。少し前からも柿崎線沿線の田んぼでも何度か白鳥も見るようになりました。でも11月ですから、まだ暖かい小春日和のプレゼントも期待しながら冬に備えたいと思います。

 先日は霜鳥兄の洗礼式が無事行われました。年齢やそれぞれの置かれた立場によってその受け留め方は個人差がありますが、日本社会において洗礼を受けるということはやはり大きな決断ですね。主イエスも信仰の道を狭い門から入る細い道として人々に問いかけました。その招きを前にすれば誰もためらいを覚えるものですが、しかし狭くあっても、これこそ人類が招かれている祝福の大道であること覚えて励ましを受けたいと思います。

 聖書を読んで気付くことは、よく相容れないような二つの教えが並存して書かれていることです。その代表が神の優しさと厳しさという両面です。聖書には神の優しさと慈しみがあふれています。どのような失敗も罪をも赦して、回復し立たせて下さるというその愛の深さははかることができず、天にまで及ぶと表現されます。この深い愛と恵みにすがることができるので、私たちには希望があるのです。

 しかし一方で、あなたは自分のいのちさえ捨てて主に従いなさい、後ろを振り返らずに、命がけで唯一つの祝福を選び取りなさいとも警告します。矛盾しているようですが、これらは愛に満ちた天の父の同じ口から出ているのです。少し考えればわかるように、これらは真の愛の両面なのです。人間の親もまたこのような愛をもって我が子に接するでしょう。人間にはこの両方をしっかり聞き分ける子どもの心が求められています。言い換えれば厳しさを恵みと捉える知恵です。考えてみれば本当に最善のものとは一つだけではないでしょうか。次善のものは二つ三つとある広い道です。最善のものを分かりながら、私たちはこの二つ三つと妥協しやすいものです。命がけで一つを選ぶ、そんなスピリットが魂の健康へのチャレンジですね。
 本日は礼拝後、霜鳥仁史兄の洗礼式が行われました。

 これまでの主の導きを感謝してほめたたえます。なおいっそうのお守りがありますように、新しい出発の祝福を共に祈りましょう。

 洗礼式1

洗礼式2

【聖書】

ヨハネ 20・24~29

【説教】

 「私の主、私の神」

 早津栄牧師

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2013-11-03ピクニック

 先日は心配した雨が少しずれて、むしろ暖かな小春日和となり、松山にてピクニックができました。雨の気配もあって、早めに引き上げることになりましたが、紅葉が思いのほか素晴らしく、もう少しゆっくりとその中にいればよかったと思いました。でも平地の紅葉はまだまだ楽しめそうですね。

2013-11-03きのこ汁

 有名ホテルの食材偽装が相次いで報じられています。氷山の一角かと皆がしらけ気味に感じているのではないでしょうか。相も変わらず利益追求の誘惑にはまって、それ以上の損失を招いてしまっているお粗末ですが、他人事ではない人間の罪性と、そこに入ってくる誘惑の力を覚えさせられます。新聞の論説でも、それはひとり企業の罪と言うべきだけではなく、それを利用する人間文化の皮相性と愚かしさが指摘されていました。

 ブランド志向の軽薄さとでもいえる傾向と言ったらいいでしょうか。ブランドたらしめようと誠実な努力をしている人々には失礼かもしれませんが、概して人間は内実より、名声や通っている名前をありがたがるものです。名前ができてしまうとその名前が一人歩きをします。大方の人は目利きではない普通人ですから、名前だけで判断し、そして容易にだまされることになるのです。それは外側と内側をめぐる人生に共通する永遠の問題でもあります。

 聖書には「わたしは人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」との主の有名なおことばがありますが、私たちの心をさぐる永遠の原理です。どんなに私たちは外側を気にするものでしょうか。もちろん内と外、共に大事ですので、願わくはそれが一致したらどんなに願わしいでしょうか。しかし手っ取り早く外側を求めるようになってしまいます。そこに皮相性と虚栄が入ります。そしてさらに欺瞞を生むことにもなるのです。

 ブランド文化は危うい罪の文化と同居しています。軽薄さと皮相性を脱して真に本物を愛し、それを見分ける目利きでありたいですね。それはまたそのまま自分のあり方に帰ってくるものです。ただ主の目の前に、こつこつと謙遜に内側の本物を育てることができますように。
2013-11-03説教

【聖書】

 Iコリント1・27-25

【説教】

 「福音の前に立つ人間」

 早津栄牧師

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↓妙高市松山の紅葉(11月3日)
2013-11-03松山紅葉

 11月に入ります。冬の前の貴重な貴重なひと月ですね。長い晩秋となりますよう。先日も新聞で、このところ日本の気候は長い夏と長い冬の二極化傾向にあり、春と秋が短くなっているとの感想が述べられていましたが、願わくは春と秋が長くありますようにとは皆さんの思いでしょう。とは言え、四季のある国に置かれていることを喜びたいものです。

 先週は宗教改革を記念しましたが、人間や組織の在り様は、難しいものですね。と言うのは、時と共に下降、減退、そして堕落へと向かってしまうことが一般的だからです。確かに何事も放っておいて自然に向上していくなどというものは、皆無ではないでしょうか。それはやはりその中心にある人間性のうちに負の力と傾向が強く働いていることの故でしょう。聖書はそれを人間の内にある罪への傾向性と説明します。「罪への傾向性」と言う表現は軽い響きを持ちますが、その言わんとする真意は、人間は皆はなはだしく罪に染まっているということです。この人間観は不人気ですが、楽観的な性善説や生半可な性悪説を越えて、私たちを真に謙遜にさせるものではないでしょうか。それゆえに私たちはいつも目を開いて、自らの罪性と戦い続けなければならないのです。

 中国指導層の腐敗のことがよく報じられます。腐敗根絶が長年の悲願だと。その実態は共産党の理想と何とかけ離れていることでしょうか。しかし西側とて高見の見物などできません。西側の盟主であるアメリカの盗聴事件が明るみの出て大きな幻滅をもたらしています。理想と離れた矛盾した姿と言うほかありません。でもこれが他人事ではない、人間の悲しい現実です。

 日本政府は今、国家安全保障会議設置法案と秘密保護法案成立に前のめりになって、アメリカに倣おうとしています。どれだけの意味があって誰のための法案なのかと問われています。国や公のためにと言いながら、一部の主義主張や誰かの腹を肥やすものへと変じていくことが人間の常です。自分を離れ、上なる方と隣人を見続けることが、私たちを堕落から守る永遠の指針です。