【聖書】

ローマ12・9-21

【説教】
「真の宗教の試金石」

↓早津栄牧師の説教(三角印をクリックすると声が流れます)

説教:真の宗教の試金石 by Heavensgate on Mixcloud



スポンサーサイト
↓池の平スキー場
池の平スキー場S

 寒さの真ん中の「大寒」は雨模様の曇り空でした。少し拍子抜けの大寒でしたが、一月早く「雨水」が来たようでもあります。2月の雨水までちょうど一月となりました。順調に春に向かって欲しいと思いますが、あまり楽観はしないでおきましょう。暦的には正味後一月の冬、忍耐しつつ冬もまた楽しみたいものですね。

 フランスのテロ事件の波紋は、特にヨーロッパや中東に拡大し、世界を二分するような様相を呈しています。諷刺画掲載をめぐる言論表現の自由派とそれを行き過ぎた侮辱と受け止める特にイスラムの人々の対立です。当初は思ってもみなかった、難しい本質的な議論となりました。フランスにとって、言論表現の自由は、宗教からの自由を含み、フランスの近代史において、幾多の革命・改革によって勝ち取って来た絶対の価値であり、フランス人の魂そのものであると言われています。一方のイスラムの人々にとっては、宗教的価値は絶対であり、預言者を侮辱することは、これまた彼らの魂そのものの侮辱だというのです。両者にとって、それは譲ることのできない絶対的価値観なのです。対立する絶対が相容れることは原理的にはできません。それは恥ずべき妥協であり、魂の喪失だからです。今回の事件は、普段あまり意識せずにやり過ごしてきた問題、すなわち文化の対立、価値観の対立を厳しく映し出すことになりました。

 さて私たちはどのように考えるべきでしょうか。私たちは近代人として、特に権力からの自由は、人類の勝ち取った遺産として死活の価値だと承認します。一方でクリスチャンとして絶対的な宗教的価値をも尊重しています。でも互いに絶対的と主張するのは良いとしても、そこを越えて争い始めるとすると両方の絶対が害悪をもたらし、宝石がただの石のように変質をし始めてしまうのではとも思えます。相手を思いやるという感情、すなわち愛こそが両者に必要ということでしょうか。一人ひとりの絶対を、常に愛によって吟味する謙遜とバランスを訓練し続けたいものです。
【聖書】

Iペテロ3・8-18

【説教】
「善をもって悪に」

↓早津栄牧師の説教(三角印をクリックすると声が流れます)

説教:善をもって悪に by Heavensgate on Mixcloud

↓粟立山
粟立山S

 大寒を迎えようとする冬の真ん中ですが、雨模様の日が繰り返しやってきます。厳しい冬の爪が抜かれたようで大歓迎ではありますが、少し変な気分でもあります。春の使者でもある雨が、今から降るということは、何か季節が一月早く回っているのでしょうか。こうなると雨に打たれてだらっとした雪よりは、もう少しは締まった新雪を歓迎したくもなりますが、ともあれ自然はまだまだ私たちには予測不能です。冬を造られた神様を覚えつつ歩みたいと思います。

 予測不能ということでは、最近のフランスのテロ事件に見られるように、あちこちでテロが頻発している現実に誰もが困惑させられていることでしょう。多分、21世紀がこのようなテロに悩まされるようになるとは誰も思わなかったのではないでしょうか。人類は20世紀で戦争を克服するのだと、希望を抱いての再出発を誓ったはずなのに、何かあちこちで破れが生じてとてもがっかりさせられている状況になっています。きれいに草刈をしたはずなのに、また次々とあちこちで雑草が伸び始めてしまうような幻滅と徒労感でしょうか。でもこのたとえでは雑草に申し訳ありませんね。雑草は破壊者ではなく、愛すべきものでさえありますが、しかし戦争は、特にテロは何という破壊者でしょうか。

 テロの恐怖と困惑はまともな理屈が通じないと感じさせられるからです。国家間の戦争ももちろんまともなどと言うべきではないと思いますが、それでも双方はちゃんとした顔と住所を持った相手なのです。しかしテロは顔を隠したとても内向きな集団です。しかし皮肉にも彼らは、人類と人間の闇を激しく警鐘している見本でもあります。まともという基準は何かと問うているからです。まるで悪魔的としか言えない論理が彼らにはまともなのです。人間は天使的にもまた悪魔的にもなるのですね。どこかで間違ってしまえば他人事ではありません。ですから誰も自分はまともだとあぐらをかくことなく、いつも謙遜に、自らの拠って立つところを吟味し続けたいものです。
【聖書】

詩篇34篇

【説教】
「主の目は正しい者に」

↓早津栄牧師の説教(三角印をクリックすると声が流れます)

説教:主の目は正しい者に by Heavensgate on Mixcloud


冬の木

 新年も第三週を迎え、また季節的には冬のど真ん中に入ろうとしています。12月のどか雪には驚きましたが、その後は何とか小康状態で推移しているようでありがたいですね。この時季に雨が降るのも吉兆でしょうか?とは言え、周囲はすっかり雪野原となってしまい、いつもながら歩ける場所がないのが残念です。恨めしく外を眺める日が続きますが、改めて木々の姿が目に留まりました。星野富弘さんの詩にあるように、木々は一年365日、ずっとその場所から移動はできません。冬だけではなく、せっかくの春も夏もそのままなのです。何十年も同じ場所で時を刻み、風雪と炎熱を忍ぶ彼らは、もしことばを発することができるとしたら何と言うでしょうか。冬はそんな木々に励まされながら改めて忍耐を学びつつ春を待ちたいものです。

 さてその365日ですが、過ぎてみればあっという間に刻まれる時間ですね。もう少しゆっくりと、あるいはここでしばらく止まっていて欲しいと思っても規則正しく過ぎていきます。新年に当り私たちは、一日一日が有意義なものでありますようにと願うものですが、何かそんな感傷にはお構いなしに、時はどんどん前に行ってしまうようです。そうなると一日一日を立ち止まってなどというのが面倒くさくなり、時の流れに流されるままと、あきらめ気味になってしまいます。年頭の思いも抱負も、いつの間にかかき消されて一年が終わってしまうことにもなります。

 それが人生の常であるとしても、やはりこの年頭に当たり、私たちは改めてその時間の流れに抗するように、努めて立ち止まりながら、この一年を歩んでいくことを確認したいと思います。聖書には「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩118・24)とあります。一日一日は神が私のために用意し、プレゼントされた日であると告げます。そうであるなら確かに一日一日は何と貴重なものでしょうか。私たちは一日を、神から押し頂くように感謝と期待をもって始め、その終わりにまた神の恵みを数えるために立ち止まる、そんな一年を刻みたいものです。
【聖書】

詩篇62篇

【説教】
「望みの主に導かれて」

↓早津栄牧師の説教(三角印をクリックすると声が流れます)

説教:望みの主に導かれて by Heavensgate on Mixcloud



2015-01-02雪景色S

 主の年2015年を迎えました。アダムとエバから数えて一体何年の年月が刻まれたのでしょうか。進化論者のような膨大な年数を全くナンセンスとして退けるとしても、それでも人類の歴史は5000年以上の数を刻んでいます。アブラハムから数えてももう4000年を経ているのです。私たちの経験年数はせいぜい80年ほどですから、数百年さえ想像が難しいでしょう。ですから数千年も刻んだとなると、ともすると時の流れは永遠に繰り返され、今日も明日も同じだと錯覚してしまいます。実際、悠久の時という表現もよく用いられ、人間はその中で一粒の砂のように、ただ時に流されているはかないもののように感じさせられます。まるで時の方がひとりでに動いている主人のように思ってしまうかもしれません。しかしもちろん時の主人は神ご自身であり、時もまた永遠のものではありません。主人の目的に従って終わりのゴールに向かって進行しています。この感覚を忘れず、私たちは目を覚まして、ゴールに向かって旅をしている身であること、そして確実に時は縮まっているという思いを持ってこの2015年を数えたいと思います。

 新しい年が希望の年でありますようにとは、世界中の人類の願いです。確かに文明の進歩を長足の勢いで成し遂げている世界には、希望という言葉こそふさわしいかもしれませんが、しかし現実は今、世界中に問題が渦巻いています。まるで寝ていた子が目覚めたように、昨今の方が問題があちこちで声を上げて、騒々しくなっているのではないでしょうか。希望よりも破壊と混乱、そして不安が横たわっているようです。素人目には、グローバル化の負の面が世界中を混乱に巻き込んでいるように思えます。そして顕在化しているのは、正義や平和よりも人間の欲望と罪ではないでしょうか。

 人類は今こそ叡智を求められていると言われているわけですが、果たしてこの罪をどのように治めコントロールしていくことができるのでしょうか。罪を滅ぼし、正義と平和を打ち立てる真の王なるキリストの前に、一人でも多くの人類がひれ伏すことができますように、それが私たちの祈りです。