【聖書】

Iコリント 15・1~26,50~58

【説教】
「恵みの家族」

↓早津牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます
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 すばらしい3月が終わろうとしています。未だ枯野と茶色の世界ですが、これからの移り変わりが楽しみですね。ソメイヨシノの北上が始まっていますが、こちらは未だ梅がピークです。でもヒガンザクラという種類でしょうか、あちこちに咲き出しているのを見ることが出来ます。春の主役であるソメイヨシノを指折り数えますが、もちろん楽しみはそれの終わらず、次々と草木の花々が顔を出して変化していくこの季節は最高ですね。春への賛美は尽きません。

 春の爆発と共にイースターを記念します。主イエスの復活を記念する時ですが、2000年前のこの出来事が、世界を二分したと言えます。死の世界にいのちの勝利が宣言された時でした。「死は勝利の飲まれたり」と聖書は高々と歌います。死の世界がいのちの世界に変わる分水嶺となりました。非キリスト教国の日本では、イースターはまるで馴染みのないものですが、聖書においてはクリスマス以上の意義を持っているといえます。クリスマス物語はイースター物語をもって完成するからです。もし主イエスの生涯が十字架の死をもって終わってしまったなら、教会もキリスト教も生まれず、そして新約聖書も書かれることはありませんでした。あまりにも大きな大きな喜びの訪れだったのです。

 しかし残念ながらこの世界は、クリスマスもイースターも、その真の物語を知らずにいます。この世界の造り主にして、いのちの君を知らないのです。人間の心を深い闇が覆っていると言わざるを得ません。いや闇の君である悪魔が人間の心の目をくらませて見えなくさせているのです。無理もありません。目に映るこの世界と人間の一生は確かに死で終わっているように見えるからです。私たちクリスチャンもこの復活のメッセージを信じるまでに誰でも格闘したことでしょう。でも神が心の目を開いてくださり、今ではよく見えるのです。苦しみと混乱と死の闇がますます深まっているこの世界に、神が人々の心の目を開いて真の希望をもたらしてくださいますように。
ふきのとう

 しばらく寒い日が続いて春が足踏みしましたが、もう3月も下旬に向かいます。春の力を止めることはできないでしょう。梅が終わってサクラが北上を始めます。楽しみな楽しみな世界が訪れますね。いのちの春を造られたいのちの主をほめたたえたいと思います。

 しかしこのいのちの世界に死が侵入していることを私たちは知っています。この正反対の両者が二分しているような世界に私たちは住んでいます。いやこの世界は両者が二分しているというよりも、最後は死が君臨していると言わなければならないことが現実です。どんなに輝くいのちも最後は死に飲み込まれるのだと見ざるを得ないでしょう。確かに死との戦いがこの世界のテーマですね。死だけではなく、病いや苦しみもこの世界に灰色のベールをかけています。また特に昨年来、ISの台頭、中東の混乱、膨大な難民の発生とそれに伴うヨーロッパの分断、そして東アジアにおける北朝鮮や中国の軍事的膨張や緊張を見ています。更に世界を導く盟主として最も安定を誇っていたアメリカもトランプ現象に象徴されるように、安泰ではないことを予感させています。そして我が日本、5年前の大震災によって、特に人類の繁栄の象徴であった原発の爆発によって、世界の原発問題の矛盾を一身に背負って依然として見通しも立たない苦悩の中にあります。

 こんなにも問題が山積した世界を誰が想像したでしょうか。今は誰も20世紀の標語であった「明るい未来」を信じれないのではないでしょうか。進歩・平和な時代と真逆のような世界が現れていると言っても大げさではないのではないでしょうか。でも今の世界はある意味で人類のおごった平和ボケに警告しています。すなわち平和や安定は自動的ではないということです。今週は受難週です。いのちの主、平和の主であるイエス様は、人類の問題と苦しみ、その根源にある罪を一身に引き受けて苦しまれ祈られました。今も世界は、この主の取り成しに支えられています。苦しみを見つめ、それを負おうとする主の心に倣い、少しでもこの世界のために取り成す者でありたいと思わされます。
【聖書】

ルカ 15・1~3,11~32

【説教】
「恵みの家族」

↓早津牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます
 暖かい日が続いたお陰で、とうとう教会の屋根から落下した固い雪の山まで完全になくなるに至りました。周辺の田んぼの雪も日に日に縮小して、地肌が占領しつつあります。そしてもう緑色の草が覆い始めていることに驚きます。こちらの方はあまり歓迎したくありませんが、いよいよ春本番ですね。また白鳥の話題になってしまいますが、先日聖書学院の卒業式に向かう途中、柿崎腺の青野交差点の手前の田んぼの両側を覆いつくすような白鳥の大群に遭遇しました。この辺の群れが全部集結したのではないかと思うほどでした。旅立ちを前にこの地を名残惜しんでくれているようで、できればその出発に立ち会って激励したい思いでした。

 3月の始まりと共に、教会でも教会総会がなされ、今年度の歩みの祝福を祈りました。いつもながら短い時間で十分な話し合いは出来ませんが、互いにキリストのからだとして愛と賜物を分け合い、支えあって主の喜ばれるご自身のからだとなれますようにということが祈りです。いつもながら教会のことを考えると複雑な思いになります。というのは小さく貧しい罪人に過ぎない者たちが、栄光のキリストのからだ、そして神の聖なる家族と言われることに全く不相応を覚えるからです。こんな者たちをそんなふうに言っていいんですかという申し訳なさと、まるで似つかわしくない名前を与えられているような決まりの悪さです。でもこの感覚は正常で大事なものなのでしょう。

 教会は天の御国へ行くときまで、地上にあってこの感覚と共に旅をするのです。これは、似つかわしくない者が法外な愛と恵みによって生かされているという原点に絶えず私たちを帰らせるのであって、教会のいのちである謙遜に進ませるためです。似つかわしくない者という感覚を失ってしまえばそれこそ教会ではなくなってしまうでしょう。逆説的ですが罪人としての謙遜が教会のいのちなのですね。そして愛はそこからのみ生まれるのではないでしょうか。間違ってもパリサイ人の自己満足に陥らないで、どんな人にも開かれた低い低い教会となれますようにと願わされます。
【聖書】

マタイ 20・1~16

【説教】
「聖なる教会を信ず」

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 先日はうれしいことがありました。しばらく見なかった白鳥の群れに遭遇したからです。それも何と、8号バイパスの妙高市と上越市の境目当りの田んぼだったのです。約50羽ほどの十分な群れでした。バイパス沿線で見たのは初めてでしたし、またそれ以上に妙高市の入り口のこんな近くにまで来てくれたことに興奮しました。やがて我が妙高市にも飛来するようになるかも知れませんね。北帰行が始まっているということですが、彼らにとっては大仕事を前に緊張の時でしょう。改めて鳥たちの生命力には驚くばかりです。

 私たちも3月と共に教会総会を迎えます。もう十分慣れきっている教会とは言え、教会のことに思いを寄せることは重要です。日本にあってはキリスト教人口は1パーセント未満で正味は、0.5パーセントくらいでしょうか。この社会でクリスチャンとされ、教会に加わっていることは、誰も予想しなかったでしょう。主イエスがあなたがたが選んだのではありませんと言われた如く、まさに不思議な神のみわざですね。

 日本にあっては片隅の片隅の小さなところに所属している私たちって、一体どういう存在なのだろうと考えます。一般の人の目から見れば、変な人たちという評価から始まって、概してあまり良い評価は期待できないでしょう。ですからここに所属しているということは社会的にはあまり居心地のいいことではありません。でもここにいるということは不思議です。歯を食いしばっているわけではなく、自然にいるのです。神によって生まれたとき、私はその神の家族に中に生まれたのです。この家族は不思議です。皆神によって生まれ、神の命が流れ、神の遺伝子を共有しているのです。まるで違った者たちがこの一点において似た者同士なのです。教会は神の家族と呼ばれると共に、キリストのからだとも定義されています。共に一から十まで神のものだという思想を伝えます。全世界は神のものですが、その中にあって特別な特別なご自身のひとみなのです。無に等しいものが特選のものとされたのです。この感動がいよいよ私たちをへりくだらせ、神の愛と恵みの見本として、天の父を証ししたいものです。