【聖書】

ヨハネ 21・15~23

【説教】「年をとると、あなたの行きたくない所へ」

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さつまいも

 台風に伴う大雨と共に急に寒くなって驚きました。熱い夏を一気に吹き飛ばしたような感があります。でももう9月の末ですから自然なことですね。何を着るか戸惑う季節でもありますが、これからは自然界も衣替えが目に見えて進んでいくことでしょう。今年の秋はどんな紅葉になるのでしょうか。またどんな実りを迎えるのでしょうか。実りの季節は一年の決算の時でもあり、どんな一年だったか試されるときでもありますね。それは秋が試されうというよりは、その前の春や夏がどのようなものだったかが明らかになるということでもあるでしょう。

 確かに時はいろんなものを試すものです。最近のもっぱらの話題は、特に富山市議たちの不正受給の問題であり、また豊洲市場のずさん工事の問題です。何年も何食わぬ顔で続けられていた不正請求がここに来て突然、衆目にさらされることになりました。多くのベテラン議員たちが今までの人生を全部棒に振ってしまうように、恥辱にまみれて退場することになりました。一方、豊洲市場のずさん工事も、新知事誕生によって急に光が当てられることになり、何年も水面下に隠されていたことの実態が明るみの出ることになりました。

 不正とずさんの当事者たちにとっては、2016年の秋は全く思いがけない災いの時となりました。隠れていた時が長ければ長いほど、それは大きな衝撃でもあります。この世界においては不正や悪が少しも裁かれることなく、何年も放置され、身を太らせているような現実があります。そのような姿を見るときは、時は何もしない悪の味方のように思えてしまいますが、しかしやはり時は正義の味方と言えるのではないでしょうか。聖書は、時は神の御手の中にあり、間違いなく正義の針を回しておられると告げます。時はあなどられるものではありません。時が侮れないというのはそれを支配しておられる神があなどれないお方だからです。本当に他人事ではありません。隠れた一時の不正は、やがて大きな決算を迫ります。当座と一時の誘惑を退けて、時のテストに耐え得る歩みを恐れを持って歩みたいものです。
【聖書】

伝道者の書 11・9~12・14

【説教】「人生の秋を励まされて」

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 秋分の日が目前です。これを境に一気に日が短くなっていくようで、あまり歓迎したくない季節の境目ですが、特に高地では紅葉が始まり、美しい秋へと移行するときでもあります。春と夏が、私たちをうきうきとした興奮に誘うとすれば、澄んだ空気と、結実と落葉に向かう秋は、自然と私たちの思いを静かな落ち着いたものにしてくれるのではないでしょうか。確かに一年のサイクルで見れば、自然界の秋は一年の決算と店じまいの時ですね。そういう意味では、秋は、成長と拡大の青年・壮年期を過ぎて、老年期に向かう人生の秋に重なります。ちょうど暦の上では、この時季に敬老の日が設定されていますが、シニア世代にとっては、人生の秋を思う良い季節でありますようにと願います。

 高齢化社会ということばが、今では超高齢化社会ということばに置き換えられ、また最近は下流老人なることばも生まれています。どちらもうきうきとしたイメージではなく、何となく厄介な暗い時代を連想させます。確かに老年期への移行は人生の危機の時ですね。個人差はあるでしょうが、体力、気力共に明らかな衰えを自覚せざるを得ない頃となります。他人事と思っていたことがわが身の現実となって、戸惑い、愕然とさせられる時でもあります。うまくソフトランディングできなければ老年期欝に悩まされるようになるかもしれません。ですから誰にでも確実にやってくるこの秋に備えなければなりません。

 人間の自然な感情としては、病気が近付き、体力気力の下降の秋は招からざる客で、まちがった宿命のように思えてしまいます。しかし聖書のメッセージは私たちを励まします。「神が造られた物はみな良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何一つありません」(Ⅰテモテ4・4)。老いもまたそうなのか?と、単純には信じがたい神のおことばですが、人生の秋への確かな道しるべなのです。自然界の秋を誰も間違った厄介者などと思わず、むしろすばらしいと賛美します。であれば人生は自然以上に賛美されるべきものとしての神からプレゼントであることを信じたいものです。

【聖書】

IIコリント 12・1~10

【説教】「感謝して受け取るなら」

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稲穂S

 ここしばらくは台風がらみの暑さが続いて、秋の冷気が止められている感じですが、それでも空や空気が澄んで確実に秋を運んできています。それと同時に私たちの心身も秋の空気に馴染んでいくようです。変化はストレスをもたらしますが、しかしだんだんそれに慣れ適応していくことのできる心身のメカニズムはありがたいものですね。一体こんな変化にどうやって対応できるのだろうかと当初はあわててしまいますが、しかし過ぎてみると不思議と通過できてきた経験をだれも持っているのではないでしょうか。その意味では人間の心身は、まだまだ計り知れない神の知恵と恵みが無限に込められた贈りもののようですね。

 パラリンピックが開幕します。オリンピックではアスリートたちの天才に単純に感動しましたが、パラリンピックでは今度はアスリートたちのそれぞれの人生の物語に感動することになるのではないでしょうか。先に変化はストレスをもたらすといいましたが、選手たちの人生を襲った障碍は並みのストレスではなかったでしょう。それぞれはどれだけ失意や絶望と戦ったことでしょうか。しかしその中で光や希望を見出して、今はハンディキャップと共にたくましく爽やかに生きている姿は、逆から見れば神の恵みに導かれた奇蹟の物語でもあります。この人たちは多くの苦闘を経たとは言え、今はハンディと共に生きる羨ましいほどの幸福な人たちでもあります。競技以上に、人生の勝利者としての姿を証して私たちを励ますからです。

 私たちの人生も身体の障害ではないかもしれませんが、大小の問題や弱さを抱えています。問題や試練を何も感じないのは幼児期だけで、もの心つけば、誰にもこれらは避けられません。そんな中でともすると、ひたすらその問題がなくなりさえすればと考えがちです。しかしパラ・アスリートたちは問題を持ったままでそれと共に生きる姿を証しています。問題がなくなることだけを願って日を過ごすことは不毛です。問題を受け入れ、それと共に生きることを学んで、思いもしなかった神の恵みの世界で、勝利者とさせていただきたいものです。
【聖書】

ローマ 12・17~18

【説教】「何ものも、神の愛から」

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 大型台風の通過と共に、8月が終わり9月を迎えます。暑さの厳しい今夏でしたが、秋の気配は既に感じられるようになりました。
ススキ

 夏の終わりはいつも寂しく感じてしまいますが、しかし秋に移行すれば、また夏とは違った秋のよさが感じられるものですね。物事の移行期は何らかのストレスを伴うものですが、秋のすばらしさに心癒され、日々の生活もまた実りの秋に向かっていきたいものです。

 物事の移行期はストレスを伴うといいましたが、この時期の子どもたちの自殺が今年も報道されています。夏休み明けが大きな危機の時となり得るということですが、確かに長い休み明けの憂鬱は一般的な現象でしょう。しかし小さな心が自殺にまで追い込まれるということは、あまりにも悲しいことですね。このような記事に接するたびに人間のデリケートさを思わずにはいはいられません。このデリケートさは人間の高度さの証明でもありますが、野生力や鈍感力とでもいうものが羨ましいですね。

 しかし理論は頭では分かっても具体的な状況の中で、悩まずに鈍感を実践することは難しいことです。まして未経験な子ども世代にとっては無理な話でもあるでしょう。弱いところにひずみが現れるといわれますから、子ども世代の自殺は、やはりこの社会のあり方の矛盾とも関わっているのでしょう。生きづらさがじわじわと圧迫しつつあるように思えます。生産性を求める経済社会の原理が社会の隅々まで無言の圧力を及ぼしているということでしょうか。それがそれぞれの能力や価値の不安を掻き立ます。「自分は生きていていいのか?生きる価値があるのか?」という思いと、子どもながらに戦っているといわれます。人間は一生この不安から自由ではないように思います。大人自らも戦っているこの圧力の中で、一体どのようなメッセージを子どもたちに語ることができるのかと考えさせられます。人間の存在価値を根底から支えるものとは何でしょう。「あなたはわたしの栄光の作品」と保証してくださる創造者なる神の声を、どんなに私たちはは聞き続けなければならないことでしょうか。