【聖書】

コロサイ 3.17~24

【説教】「日々の生活を祭司として」

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2017-01-29妙高山々

 大寒を過ぎて今が一番の厳寒期でしょうか。東日本だけではなく西日本まで寒波が襲来して雪をもたらしています。でも回りは雪国らしい白銀の世界で、何となく落ち着いた気分にさせられます。考えてみれば、一年の中で風景が真っ白に変貌するこの季節は、どの季節以上に神秘的で、神の奇蹟の御手を覚えることができるのではないでしょうか。この貴重な神秘の世界を見れる雪国を幸いと考えましょう。

 今週は、多少相撲に興味のある人にとっては大きな歓喜の週となりました。稀勢の里の優勝と横綱昇進です。大げさかもしれませんが日本中が興奮したのではないでしょうか。私もテレビの前で感動の涙に浸り、幸せな夜となりました。くどくど解説する必要は無いでしょう。この人こそと期待され、何度もチャンスを手繰り寄せながら、しかしそのたびに何度も跳ね返され、悔しさと不評をなめてきました。その心中を誰も自分と重ねて応援してきたことでしょう。悲劇の主人公になるのかと思われた向きもありましたが、とうとう満願の成就となったのです。19年振りの日本人横綱の誕生でした。彼一人の願いではなく、国民全体の悲願でもありました。

 考えてみればこれほど応援された彼は、その分辛くもありましたが幸せ者ですね。長く辛い時期、気分が萎える時もあったでしょう。しかし彼は腐らず黙々と練習を積んだというのです。そんな彼に相撲の神様が微笑みました。もちろん相撲の神様は間違った表現ですが、言わんとするところを良しとしましょう。あるべき正当な報いだと、誰でも納得する結末を皆が喜んだのです。長々と書きましたが、この人生の物語に誰でも共感と励ましを覚えるでしょう。私たちもまたそれぞれ取り組んでいるものは異なりますが、何か何かと一人相撲を取っている者ではないでしょうか。それを見ていてくださる神がおられるということは大きな慰めです。もちろん見ているだけではなく正当に報いてくださるということが聖書の約束です。ですから辛い時も腐らず忍耐して、それぞの土俵で、神を見上げて忠実に日々のわざに励みたいものです。
【聖書】

ローマ 12.1~12

【説教】「私には何ができるのだろうか」

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雪

 先週の寒波は予報通りの大雪となりました。少しあわてましたが、昨年から、雪国にありながらまとまった雪を見ていなかったので、何か安心したような気分にもなりました。しかし今回は南の西日本でも同時に大雪になったということですから、やはり近年は冬も変調しているのでしょうか。そうとは言え、雪国の雪はごく自然な神の支配の証でもありますから、冬を嫌わず雪国を愛したいものですね。

 自然の変調以上に気になるのは、昨今の人間世界の変調とも言える姿ではないでしょうか。特にトランプ大統領の誕生は台風の目のようです。先ずどんな就任演説となるのかと世界は固唾を呑んで見つめています。何か怖いもの見たさといった興味もあいまって、今全世界の注目を集めています。アメリカの大統領は確かに世界で最も影響力のある重要人物ですが、一人の人物があまりにも注目を集めるのは、世界にとってはあまり穏やかな状況とは言えないのではないでしょうか。大げさかもしれませんが、ヒトラーの再来にならないように、アメリカの良識と世界のために祈らなければなりません。

 方や日本も今、天皇の退位をめぐって改めて天皇家に関心が寄せられています。日本の根幹でもある天皇制のあり方が注目されて、開かれた議論の場となるならば良い機会ではないでしょうか。現天皇は誠実な人柄であることがうかがえますが、宮中祭儀が連綿と盛んに行なわれている伝統のことを知らされると、私たちクリスチャンとしては複雑な気持ちですね。日本の根幹部分で得体の知れない偶像祭儀が依然として重んじられているということをどう考えたらいいのでしょうか。まったく日本の国の深い闇と言わなければなりません。この巨大な闇にどうやって対峙できるのかと考えてしまいますが、聖書においてはクリスチャン一人ひとりは王である祭司と定義されています。一体一人が何ができると考えてしまいますが、まことの神をこそ真の王として戴く者として、自分の置かれた場であくまでも正義と誠実を追求する者となり、まことの王、まことの光を証する者でありたいものです。
【聖書】

詩篇 37

【説教】「人生の隠れた土台」

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2017-01-18妙高山

 ちょうど1月の半ばを迎えます。ここまでほぼ雪の無い?冬となったことは意外ですが、大分得をした気分ですね。2月も半ばを過ぎればもう春に向かいますから、冬も後正味一ヶ月ということになります。もう先が見えてわずかな期間ならば、それを楽しみに、厳しい冬も歓迎したいと思います。

先回はポスト・トゥルースなる語に触れましたが、今回はまたその同類のフェイクについてです。この耳慣れないことばがマスコミに登場するようになりました。辞書によればこの意味は「偽造品」「作り事」「虚報」「でっち上げ」となっています。両語は共に、トランプ氏の登場と深く関っています。トランプ氏の大統領就任までカウントダウンとなり、今世界の関心はもっぱら彼の言説に集まっています。既に大統領選の時から彼はフェイクを平気で多用し、アメリカ社会を巻き込み、それが彼の命取りになるどころか、かえって人々を惹きつけ、何と勝利を手にしてしまったのです。そして今もまさにそのスタイルで盛んに発信し、回りはそれに振り回され、戦々恐々としているとさえいえる状況です。国民には相手にされないだろう、簡単に失脚するだろうとの大方の予想に反して、熱狂的支持者を集め、大統領に就任しようとしています。あってはならないことが現実となったということが多くの人の思いではないでしょうか。

 このトランプ氏が聖書に手を置いて、大統領就任の宣誓をするなんて、悪い冗談と思えてしまいます。聖書は言うまでもなく、うそを言うことを十戒において最大の道徳的罪として禁じています。もちろん人間は誰でも、ついうそをついてしまうことは避けられないほどの弱さを持つものですが、平気で、何か戦略的にうそを言うとなると、それは別問題です。神に対する大きな挑戦として必ず災いを刈り取ることになるでしょう。でもトランプ大統領の誕生をアメリカ社会が容認したことは、時代があえて神に挑戦しようとさえしているのかもしれません。どんな状況であろうと、フェイクに耳を傾けたり、市民権を与えることなく、神を恐れて、フェイス(真実)をこそ自らに養うようにしたいものです。
【聖書】

Ⅰ列王記 3.1~15

【説教】 「あなたに何をあたえようか。願え」

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すずめ

 穏やかな新年となりました。陽光の中、スズメをはじめ何種類かの鳥たちが同じ木の枝で仲良く動き回っていました。大きな鳥が追い払うわけでもなく、スズメたちも別に恐れている様子もなく共存していました。のどかで平和な新年の絵のようでした。

 一方で元旦の新聞には、ポスト・トゥルースなることばが取り上げられていました。特に昨年、ヨーロッパやアメリカを覆った、時間を逆戻しするような分断と排斥の風潮と、その現象を生み出した一つの要因でもある、偽情報が飛び交い、それが多くの人々の支持を受けて広がっていく様を表現したものと思われますが、世界は今やポスト・トウルース、すなわち「真理後」の時代に入ったのではないかという危惧を表現しています。真理後とは抽象的ですが、真理の後に来るものとは当然、真理以外ということになるでしょう。

 私たちが向かおうとしている世界が真理後の時代に突入していくとするなら、それは何と恐ろしいことでしょうか。その意味していることは人々が真理への尊重や信頼を行動規範とするのではなく、別にそんなことは重要ではなく、偽りをも都合によって受け入れるということでしょうか。もしそうならこの世界は、大きな混乱と退廃を招くことになるでしょう。でも一体そんなことが有り得るのでしょうか。一昔前なら有り得ないと断言できたかもしれませんが、昨今の世界の状況は、決してこのことばが大げさではなく、時代を預言した真理かもしれないと思わせます。

 私たちクリスチャンにとっては、すぐ聖書の預言を連想させるものです。特に使徒パウロは、終わりの時代には、人々は、真理よりも、自分と金、また欲望を愛し、健全なものより空想話にそれていく困難な時代になると警告しています。ここを読みながら果たしてそうだろうか、悲観的過ぎはしないかとの疑問が共存していたものですが、まさにポスト・トゥルースと重なります。でも人間はいつの時代も都合のいい偽真理だけを選択してきたとも言えるのです。漂流の時代に流されず、真理とは何かと問い続け、その真理に謙遜に従う者でありたいものです。
【聖書】

詩篇 ヘブル 11.1~27

【説教】「祝福の契約に入る」

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初日の出

 2017年の新しい一日が始まります。明けましておめでとうございます。新年に当り、それぞれ思いを新たにさせられるときだと思いますが、神様からのメッセージがそれぞれの心に届けられるように祈ります。ご自分が造られたこの地球という国のまことの王として、この国とそこに住まう国民の一人ひとりに何を語られるのでしょうか。それを知りたい、それを聞きたいということが私たちの切実な願いですね。この新年の時に限らず、2017年のすべての日において、その主の細き御声を求め、聞き分けることが私たちの務めでもあります。

 先回も書いたことですが、過ぎた一年はことに激動の年であったと誰もが感じたのではないでしょうか。その激動は、希望的な好ましいものというよりは、否定的な負の方向に激しく揺れ動くものだったと思えます。このことは、21世紀に生きる私たち現代人にとっては意外でもあります。文明の進歩は、政治も社会もそして人間たちをも、過去の暴力や搾取、そして戦争という失敗と負の教訓を乗り越え克服して、民主的で平和的な、成熟した社会と人間たちをもたらすはずだと誰もがどこかで楽観していたのではないでしょうか。進歩の恩恵はもちろん、いろんなところで見ることができる一方で、しかし新しくかたちを変えた搾取や不公平が生まれ、そして争いや戦争はむしろ世界各地に飛び火しています。ソビエトが崩壊し、冷戦が終わった時、さあこれからは平和的世界が実現するに違いないと思いましたが、現実は何と私たちの予想を裏切ったことでしょうか。その楽観の前に立ちはだかるものこそ、人間の罪と欲望ではないでしょうか。

 ああ、真の王なる神が直接この世界に、神政政治を行なってくださればいいのにと思いますが、もしそうなったら、どれだけの人が生き伸びることができるでしょうか。神政政治を行なわないのは、むしろ愛と忍耐の故ですね。2017年も王なる方の愛と忍耐によって刻まれます。この愛に答えて、それぞれの歩みが内なる罪と社会の罪と戦い、愛と平和と正義の主に倣う者でありたいと思わされます。