↓2012年8月25日妙高登山(妙高山最高地点2454m)
妙高山頂

 今年も早6月半ばとなりました。寒かった冬、そしてその後もなかなか暖かくならず、寒さを感じていた今年の前半期でしたが、ようやく半袖生活が始まりました。

 今日久しぶりにしっかりと妙高山を眺めたら、雪がもうほとんど後退し、すっかり夏山の景観でした。やはり日々の日常はどちらかと言えば、とかく下ばかり見ている傾向にありますね。妙高はすっかり様変わりして、登山に招いているように思えました。

 確かに人生は努めて繰り返し、上を見上げなければなりません。詩篇121篇が「山に向かって目を上げよ」と招いているとおりです。もちろん山よりもさらに高くいます天の神を見上げるようにと招かれているのです。

 昨日の新聞の2箇所から同じようなテーマが目に留まりました。一つは橋下発言を断固として拒否する米社会の社会的・政治的土壌についてでした。どこの国にも現実の矛盾があり、歴史の暗部があります。

 アメリカではつい最近まで公然と人種差別が行われてさえいたのです。だからこそアメリカは理念を高く掲げ、それに反する意見は完璧に否定する。そうしなければ今も残る傷口から血が噴出し、米国は崩壊してしまう。だからこそ米国は理念を譲らないというものでした。

 もう一つは亡くなった、なだいなだ氏の人物評でした。彼は絶望的な状況でも、希望を失わない人間であろうとし、理想とは「たどりつけるもの」でなくても「見つめるべきもの」であるとの理念に生きたというものです。

 両方の記事は共に、高い理念を掲げることと、それを取り下げないことの重要性を言っています。方や日本は、もっと現実に妥協しなくてはと、日本国憲法の高い理念を放棄しようとしています。理念の放棄は更なる現実の低下と混乱を招くことになってしまうでしょう。

 私たちの聖書は、天の父の完全さを映し出す究極の理想と理念が掲げられています。ある意味で到底たどりつけるものではありません。しかしだからと言って、一言一句は決して変えたり取り下げたりしてはならないものなのです。これを見つめつづけることによって、天の父へと導かれるからです。
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