↓雪の妙高山
2018-01-15 妙高山

 1月ももう20日を迎えます。暦の上では大寒ということで、まさに冬の頂点に当たると思いますが、ある意味でこれからは山を越えて冬が下り始める時でもありますから何となく山を越えたほっと感がするのではないでしょうか。まだまだ雪と寒さが続くでしょうが、春に向かって少しずつ下っていくこの季節をも楽しみたいものです。

 でも昨今は自然の速度よりも人間社会の営みのスピードがどんどん速さを増して自然感は置き去りにされがちです。どこへ向かうのか誰も予測が出来ないような不気味さを感じるのではないでしょうか。人間も社会もこのスピードに巻き込まれ否が応でもこれに順応せざるを得ない力に追いかけられているようです。ITやAIに代表される科学技術の進歩がこのスピードの主役でしょうか。改めて人間の知能のすばらしさとその可能性について目を見張らざるを得ません。でもこの進歩のスピードがただただ経済的動機によって引っ張られているように見えることが不安感の原因ではないでしょうか。
 
 また一方で政治的な世界も近年は大きな変化が起こって、安定よりも変化と混乱の時代に入っているように感じます。しばらく前ならば、世界は何となく安定的に良い方向に変化していくのではと楽観していたように思いますが、今は何かまちがったことが起こるのではないかという不安感が大きくなっています。科学技術の世界もまた政治の世界も今ほど人類の叡智が求められている時はないでしょう。特にリーダーたちの安定と健全に向かう知恵のために祈らなければなりません。
人類の叡智と言いましたが、聖書的には叡智とは優れた人間の知恵ではありません。神を知り神の下でへりくだるところから生まれる知恵です。ますます人間の知恵の万能感が謳歌されるような時代にあって、立ち止まって考えることは重要です。このスピードの時代にあって、私たち個人も、乗り遅れる不安感に踊らされることなく、いつでも立ち止まって神のことばから知恵を学び、自分を見失わないようにしたいものです。
冬景色

 正月を過ぎて冬本番という候に入っていますが、先日は雨模様が続いたりして温度も上がり春の陽気を感じさせました。冬が短縮されたような得をした気分です。でも今週は大型寒波ということですので、楽観をしないでまだまだ本気の冬に備えなければなりませんね。いずれにしても暦の上では冬は既に、後正味1ヶ月余りですのでそれを指折り数えたいと思います。

 冬はもうじき去り行きますが、新しい年2018年は未だ始まったばかりです。ですのでこちらは去り行くのを指折り数えてというわけにはいきません。むしろ今は、いたずらに早く時が流れすぎ去らないうちに、今年成すべきことや目標を設定したいものです。神様がそれぞれを刺激して有益な目標や課題を示してくださるように祈りましょう。やはり私たちの人生にとっては惰性やマンネリ化は生気を奪ってしまうものではないでしょうか。でもうっかりしているとこれらはすぐ侵入してきてしまいます。それで新年の新鮮感は元の木阿弥的に惰性に取って代わられてしまいます。

 昨年95歳で召された故日野原氏は、年をとっても人生を若々しく生きるための多くの刺激的なことばを残されましたが、その中で私の記憶に残っているのは、「人は何歳になっても変わることができる」ということばです。果たして本当でしょうか。わたしたちの現実の経験はむしろ、年を取るにつれて、マンネリ化の方が早く進行し、新しいことをしたり、何かを期待する感覚は薄らいでいってしまうのが現状です。これは一方の確かな現実と言えますが、でも生きるということはこれに抗することなのでしょう。聖書の思想もまた「人は死の瞬間まで変わることができる」と言っているといえるでしょう。人間と人生に対して何という肯定的な態度でしょうか。これが人間を造られた真の医者の見立てなのです。ここに救いの希望もあるのですね。私たちは自分で勝手に限界を定めて、マンネリ化を招いてしまいがちです。今までと変わらないと決めつけてしまうことは罪とも言えるでしょう。神様に向かって更に大きく、新しいことを期待することによって、過ぎた年以上に生かされたいものです。
2018-01-07 新年

 新年明けましておめでとうございます。2018年も主の支配の年であることを確認してスタートできることは幸いです。この世界は、主による天地と万物の創造をもって始まりました。すべてのものはこの方によって造られ成り、そしてずっと支えられ生かされています。この方こそそれ以来、そしてこれからもずっと永遠に、この世界と万物の主の主であり王の王です。たといこの世がそのことを知らず、認めずとも、この事実以上にこの世界とまたそれぞれの人生の確かさと慰めの土台はありません。ですので、この新しい年をもまた、主が設計され、主に導かれる、主より賜る年として、感謝と恐れをもって押し頂くように受け取りたいものです。

 内憂外患ということばがあります。内にも外にも問題や心配事を抱えているという意味ですが、年末にも触れましたが、世界の政治的社会的状況は、どの国にとってもまさにこの言葉のごとくではないでしょうか。20世紀の合言葉であった平和と共存は、21世紀に入っての特に近年は、分断と敵意に変わろうとするかのような様相を呈していると危ぶまれています。明るい未来よりも予測不能な危機的混乱に至るのではないかと心配されています。ですので人間の愚かな罪が、この世界に悲劇的混乱を招くことがないように、いよいよこの世界の真の王なる方のみこころにかなうように恐れを持って歩まなければならないと思わされます。

 内憂外患は、こと国だけの問題ではありません。それぞれの人生もまた、内に外に様々な憂いを抱えているものではないでしょうか。それらの問題の故に、新年のスタートが重苦しい気分に覆われているかもしれません。でも私たちにとってそのような時ほど希望を必要としている時はありません。どんな中にあっても真の希望は、この世界と人生の設計者なる方の善なるみこころ一つです。それぞれの歩みが主のみこころにかなうこと、そこから希望の泉は尽きることなく流れ出て、何も恐れるものはありません。そんな2018年でありますように、主を求めつつ歩みたいものです。
↓火打山と大毛無山
2017-12-07 大毛無山

 先週のクリスマスは幸いにも穏やかな天気が数日続き、天候を心配することなく記念の礼拝を守れたことを感謝しました。今週はまた早速寒波が襲来していますが、もうここまで来ると冬本番と覚悟が出来ていますので、2月の雨水まで、約一ヵ月半の雪国の冬の趣を楽しみたいとも思います。幸いなことに既に冬至を過ぎましたので、未だ実感されにくいとは言え、これから少しづつ明るくなるのもうれしいことですね。

 2017年の年末を迎えます。何となくせわしく感じる年末でもありますが、一週間位は静まって、一年の恵みと主のみわざに思いを寄せたいものです。政治的社会的には世界も日本も、平和というよりも混迷が深まっているような印象ではなかったでしょうか。中東やアフリカ地域での相変わらずの紛争、北朝鮮に象徴されるアジア地域の危機、そして何よりも政治的社会的先進国であるヨーロッパに、今までの価値観に逆効するような右傾化傾向と民族分断が加速していること、更に予想外のトランプ出現によるアメリカの混乱が挙げられます。方や日本にあっては自民一強支配による政権のおごりにイライラが募った年ではなかったでしょうか。残念ながらこの状況が更に続きそうですので、イライラを越えて諦めとしらけ気分に覆われかねません。改めて人間の歴史と未来が楽観できないこと、何よりも聖書が警告する如く罪の現実があなどれないことを考えさせられます。

 人間の力によってはユートピアが実現できないことを冷静に見つめながら、それゆえにこそ今の時代と出来事すべての上にいます神の支配とその栄光を一層仰ぎ望み、その現われを信じ待ち望みたいと思います。危機と混乱は信仰のテストでもあります。このことはまた一人ひとりの個人的な一年の日々にも適用されなければなりません。私たちの日々もまた目に見えて順境のユートピアに向かっているわけではありません。失望や混乱やイライラに襲われます。そんな時こそ、すべてのものの上にいます力と恵みの主を見失わないようにしなければなりません。そしてどんな中にあっても主の栄光をこそ求めたいものです。
クリスマス

 本日はよくいらっしゃいました。毎年も持たれるクリスマスの記念ですが、クリスマスのよき知らせが皆さんお一人お一人に届けられますようにと心から願っています。形だけのようでもありますが、全世界でこんなにも記念されている人はいないでしょう。何よりも西暦の年号にこの人のことが刻まれている限り、クリスマスがこれからもずっと保存され続けるのではないでしょうか。日本では元号が未だ主流ですが、その不便さが論じられるようになっています。やがて西暦が統一的に採用されるようになるかもしれません。いずれにしても今年の西暦2017年は、世界中で通用します。そしてこれは、キリスト誕生から2017年を意味しています。2000年も前の出来事を毎年記念していることになります。そんな大昔の遠い土地の出来事と一体何の関係があろうかと思われるかもしれませんが、お一人お一人と深く関っていることを知っていただけたら幸いです。

 何も知らず、全く無縁と思っていた私にも、最初のクリスマスから約1960年後に、そして地理的には何万キロと離れている新潟県新井市(現妙高市)に住んでいたこの者に、このニュースが届けられました。初めてこのニュースが私にとって意味を持った時でした。今も改めてこのことを振り返ると不思議な感動を覚えずにいられません。2000年前のニュースでありながら、2000年も生き続けて私のところに届いたからです。ですのでこのニュースは、世界のどんな隅々にも、この2017年に、そして更にこれから生まれるであろう人々にも届けられ続けることでしょう。すべてのニュースは時間的に新しいことがいのちです。時が経過するとニュース性はなくなってしまうからです。でも不思議なことにクリスマスのニュースは今も生き続けているのです。その如く、この2017年のクリスマス、まさに生けるニュースとして皆さんに届けられますように。心の耳を澄ませて・・・・このニュースが真のクリスマスプレゼントとなりますようにと祈ります。