↓国道18号、道の駅あらい付近の八重桜
2017-04-30八重桜

 ピクニックを予定していた先週の日曜日、気になる天気はほぼ快晴ながらかなりの低温との予報でした。晴れても寒いのはピクニックにはいかにも興醒めですので、何とか1度でも2度でも温度が上がりますように、できれば南風が吹きますようにとひたすらそのことを祈っていましたが、当日の明け方、南風どころかけっこうな大雨の音に耳を疑いながら起こされました。南風どころか逆の答えに気分は恨めしく沈みました。でも朝から雨なら返って迷わされずに屋内と決められるではないかと、気持ちを切り替えて慰めました。ところが天気は意外と回復し、前向きな何人かの兄姉にも考えは修正され、礼拝の終わる頃には野外ピクニックを決断していました。結果的には気温も思ったほど寒くなく、無事ピクニックを終えることができました。神様これがあなたの導きですか、と釈然としない思いながら、神様のあわれみを覚えながら感謝の帰途となりました。天気相手は一筋縄には行かないものですが、神様相手もお前の思い通りではないよ、と改めて考えさせられた一日でもありました。

 今朝の新聞に、沖縄の埋め立て工事再開が大きく報じられていました。有無を言わさずの政府の姿勢が露骨に回り始めました。沖縄の人々に寄り添いなどとは単なる時間稼ぎだったのかと怒りを覚えますが、沖縄の人たちは何度裏切られてきたことでしょうか。天気には温かみがありますが、政府にはただ粛々といった冷たさしか感じられないでしょう。期せずして今村大臣の「東北でよかった」発言が、今度ばかりは政府としてもかばいようがなく辞任に追い込まれたことが報じられていましたが、首相や官房長官のただ一辺倒に繰り返す辺野古移設最善発言は「沖縄でよかった」と言っているに等しく、辞任の抗議も起きないのが寂しいですね。沖縄と対話しないで米国とばかり対話している政府はまた日本全体の醜い姿でもあります。日本全体が「沖縄でよかった」と無責任に追随してきた歴史、仕方ないと言ってきたあまりにも大きな山が、少しでも逆方向に動き出すように祈りたいものです。
↓教会のライラック
2017-04-21ライラック

 春の嵐が続いて、もう少し楽しみたいサクラが早く散ってしまったところも多かったことでしょう。でもサクラと大風が重なるのはこれまた春の自然なので良しとしなければなりませんね。貴重なサクラのシーズンが終わろうとしていますが、今度は新緑と共に様々な花々が一気に咲き出し、サクラの喪失感を十分補ってくれるのではないでしょうか。この春の美しさを見れば、神様のご性質が義であり、善であるとともに、美なるお方であることも疑うことは出来ません。

 この美しく調和の取れた自然界に比して、人間社会が美しく保たれるためにはなんという労力が必要なものなのかと、最近は考えさせられることが多いのではないでしょうか。二度の大戦の教訓を深刻に刻んで再出発した世界は、平和という価値観が切実なものとして共有され、それによって曲がりなりにも安定を築いてきたように思えますが、ここに来て安定の主役であったヨーロッパやアメリカに、全く予想もしなかったナショナリズムが台頭し、それが象徴するように、今世界の状況を表現するために、分断ということばが盛んに使われるようになっています。

 先日はシリヤの化学兵器使用に対する最大限の抗議であったとは言え、アメリカがまさかの大々的なミサイル攻撃を敢行しました。目にあまるアサド政権に対する牽制として、どこか溜飲を下げるような思いが生じたことも禁じ得ませんが、でも一方で冷静に考えれば、今まで慎重に封印されていた武力行使があっという間に解き放たれてしまった瞬間であったとも言えるのではないでしょうか。今ミサイルのような近代兵器が一たび発射されれば、一瞬にして大破壊がもたらされます。70年前の大戦の比ではありません。その武力映像を見ながら、武力戦争の戦慄を改めて覚えさせられました。今政府は新安保法制をまとめて時代に適応した安全保障体制を整備したとの高揚感の中にあるようですが、戦争の教訓を忘れた軽さを覚えずにいられません。国民全体が武力という一時の高揚感の誘惑を断じて拒否する冷静さを試されていることを覚えさせられます。
2017-04-16イースターS

 今年の春は少し天候が不順ですが、今私たちの地はちょうどサクラが満開です。日本ではあまりにも慣れ親しんだ風景でもありますが、でもこれは一年に一回きりの光景ですから、数えてみれば、長寿の人でさえ100回にも満たないのですから、貴重な風景でもありますね。約10日ほどの花期を過ぎれば、今度は来年までのほぼ一年間、万人に愛でられるこの時期とは対照的にほとんど目立たない木としてひっそりとたたずみます。風雨にさらされながらその場を動かずじっと耐える植物たちの忍耐は、これまた花期以上の称賛ものではないでしょうか。

 今年はちょうど桜の満開時にイースターを記念します。サクラに代表される春の自然界は、まさにいのちが爆発しているようです。聖書に、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。・・・話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り」(詩篇19)とありますが、まさにこの春は神のメッセージが響き渡っているようではないでしょうか。そのメッセージとは、神は尽きないいのちに輝く世界を造られたということです。

 創世記には、神が創造のわざを終えてすべてのものを見られた時、「見よ。それは非常に良かった」と記されています。すべてが美しく完璧だったのです。その意味することは、そこには、死は一つもなかったということです。しかしこのいのちの世界に死が入ってきました。それは人間の罪の故ではありましたが、それは途中からの侵入物であり一時的なものに過ぎません。しかしこの死が今や我が物顔にこの世界を支配しているかのようです。死こそ元々からあったこの世界の動かすことの出来ない最強の支配者だというメッセージこそ、この世が作り出した最大のフェイクニュースです。全人類の罪の身代わりとなって十字架に死なれたイエス・キリストは、罪と死を滅ぼしてよみがえり、今やこの世界をもう一度、創世記以上のいのちの世界に取り戻して下さったのです。復活の主を見上げることによって、この世界を覆っている偽りのニュースに立ち向かいたいものです。
2017-04-08文化ホール周辺

 なかなか寒い日が続き、今か今かのサクラも今年は大分足踏みをしているようです。しかし開花を待つゆっくりな時間もまた味わい深いものです。サクラが満開になるころには、今度は時が早回りするように一気に春が進みますから、その頃は逆に時間の早さが恨めしくも思えますね。いずれにしてもいのちが輝く春はすばらしいの一言です。春を造られた神様は、私たち人類に一体どのようなメッセージを告げておられるのでしょうか。

 教会では復活を記念するイースターの前に、主キリストの十字架の死を記念する受難週を過ごします。輝かしいいのちの前に、キリストの受難があったことを改めて考えさせられるこの季節です。聖書の有名な句に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12・24)とありますが、自然界のこのすばらしい春の背後にも、実は隠された神様の大きな犠牲とでもいうべき労苦が隠されていると見ることもできるのではないでしょうか。ちょうど豊かな作物の背後に、農夫の多くの労苦が隠されているように。この地球の美しい自然というドアをくぐって中をのぞいて見たら、何と神様が泥まみれになって、様々な汚染物や問題と格闘し、労苦しておられたというような絵をイメージしてみることもできるかもしれません。主キリストの十字架のお姿は、まさにこの泥まみれの農夫の姿と重ねることもできるでしょう。

 しかし十字架の苦しみの真の意味は、この自然界を支えておられるというよりも、私たち一人ひとりの人生と関わります。それは人間の苦しみ、病、そして失敗や罪を一身に背負って私たちの身代わりとなって苦しんでくださっているお姿です。泥まみれの神様、いや私たちの罪の罰を代わりにに引き受け十字架上で血まみれになっている神様を一体誰が想像できたでしょうか。人間は、人の不名誉や失敗、そして汚れからは遠ざかります。しかし神は人間の汚れと失敗の真ん中に降りて来られ、それを引き受け負って下さるのです。私を生かすために何という犠牲がささげられたことでしょうか。
↓斐太遺跡「天神堂」カタクリ
2017-04-08 天神堂

 4月を迎えます。サクラの便りがあちこちから聞かれるでしょう。こちらは、早くても未だ二週間後とは言え、日当たりのいいところでは急速につぼみがふくらんでいるのではないでしょうか。部屋から見える少し遠くのサクラを、望遠鏡でチェックするのが最近の楽しみになっています。

 今年のサクラを待ちながら雅子姉は天に旅立ちました。教会には昨年の満開のサクラの中で微笑んでいる雅子姉のすばらしい写真が飾られていますが、地上にあってはもうそれを再現することはできなくなりました。でも聖書によると、その何倍にもまさる天のパラダイスに移されたことが告げられていますから、それを信じて姉の召天に慰めを覚えるとともに、私たちもまた天の故郷への憧れをかき立てられたいと思います。
つくづくと人の一生は不思議なものですね。人類の歴史が始まって以来どれだけの人々がこの地上にその足跡を刻み、そして地上を去っていったことでしょうか。その無数の数を思うと、ともするとその中の一人の一生など、無数の中の一点にも満たないように思えて、いかにもはかないものと思えてしまいます。確かにこの感覚は自然とも言えますね。

 聖書を知るまでは私たちもこのはかなさから抜け出ることは出来ませんでした。しかし聖書は何と違った世界を示してくれたことでしょうか。一人ひとりが全世界よりも重い価値を持つ者として神によって造られたことと、そしてそれゆえにその一人が80年で死に飲み込まれて終わるようなものではなく、永遠の存在であると示されたのです。確かに全世界よりも重い存在であるなら、世界が滅びてもなお一人ひとりは生き続けるものとして意図されているのです。聖書には驚くべき二人の人生の結末が書かれています。エノクとエリヤです。彼らは生きながらにして天に上っていったのです。これは聖書における真珠のようなところですね。地上の80年は終わりではなく、天につながっていること、いや天に羽ばたいて凱旋することを示しているのです。それぞれしっかりとこの結末を夢見、憧れながら、地上の生を雄々しく歩みたいものです。