↓板倉区やすらぎ荘の芝桜
芝桜2

 ゴールデンウイークの5月第一週は、まさに一年中で最高のゴールドシーズンともいえるのではないでしょうか。野山はやわらかい新緑のグラデーションに包まれます。春党の人は秋の紅葉にも勝ると賛美することでしょう。一年でこの季節だけに現れる数週間は、いつもながらこのまま時間が止まってほしいと願うものです。どう表現したらいいかことばが出てきません。ただすばらしい・・・と。

 今週は賛美礼拝ですが、今述べた自然へのこの賛美の感覚が、神への賛美とはどのようなものかを、道案内してくれるかもしれません。すばらしい自然を前に、誰に強制されるのではなく、ただおのずと賛美が湧き上がります。いやただそれしか出来ないのです。どこかの国の指導者が、国民に強制的に賛美を強いることとなんという違いでしょうか。もし神を前にするなら、多分私たちはただことばにならない賛美をささげるだけなのでしょう。それは春を賛美することさえ色あせてしまうような光景となることでしょう。

 この光景を垣間見させてくれる場面が黙示録に記されています。神に造られた全人類と万物を代表して、24人の長老たちと四つの生き物が、神に向かって、聖なるか、聖なるかな、と賛美と感謝をささげます。しかも昼も夜も絶え間なくただこれだけを叫び続けたとあります。(黙示4・8-11) 昼も夜も24時間、休みなく、ただ賛美と感謝をささげて疲れることもないのです。私たちの内なるエネルギーのすべてをこの礼拝と賛美に掻き立てる圧倒的な存在者を目の当たりにしているからです。それは何と羨ましくもある光景でしょうか。それに比べれば、今地上にある私たちの礼拝は、賛美されるべき方にとても似つかわしくない、のろのろとたどたどしいものです。まだまだこの方のすばらしさを知らないからですね。それでも神様は私たちの貧しい賛美を喜んでくださいます。やがて私たちもこの地上の旅路を終わって神にまみえて、憧れの礼拝に加わります。それまで、まだ見ぬ神の素晴らしさを更に知り続けて、天の礼拝に少しでも近付いた礼拝者にされたいものです。
↓松山で咲き始めたシャガ
シャガ1

 教会の庭はどの木も新緑がボリュームたっぷりになりつつあります。濃い緑になるまでのこの期間の若葉色はとても人間では作り出せない微妙な美しさです。赤ちゃんの柔らかい肌のようなふわふわ感ではないでしょうか。確かに木の葉は一年サイクルで一生を終えるともいえますから、今が誕生したばかりのみずみずしさと生命力にあふれている時でもあります。いのちあふれるこのすばらしい春に、目に見えずとも隠しきれないほどにご自身を現しておられる、このいのちの源なるお方をしっかりと仰ぎ見たいものです。

 先日はとても暖かい陽気の中、2週順延していた墓前礼拝とピクニックが出来ました。メインの桜はもう終わっていましたが、八重桜の種類がちょうど見頃でした。食事を終わって、子どもたちはかくれんぼをしました。大人になると多分誰もかくれんぼなど重労働、少しも面白くないとしらけてしまいますが、子どもたちは皆不思議なほどかくれんぼが大好きですね。(古庄姉は一緒にやってくれました。ご苦労様でした。)そのかくれんぼを見ながら、あーあ、鬼は大変、こんな広いところで一体どうやって捜すのかと同情しましたが、でも鬼役の子どもは、捜す気満々で楽しそうでした。一体このゲームでは鬼と隠れ役はどちらが楽しいのでしょうか?

 そんなことがあった今週、私はヤンシーの本を読み直していたのですが、ちょうどかくれんぼの話題が出てきました。そこでは隠れ役の楽しさに触れられていました。鬼に熱心に捜され、とうとう見つけられることが楽しいのだと。確かにこのゲームは鬼があきらめてしまって、捜すことを放棄してしまったら成り立ちませんね。このことはちょうど神様と人間の関係にも当てはまるようだとの例証でした。聖書には「主はご自身を隠す神」(イザヤ45・15)とも言われています。そんな神なら分かりようがないではないかと腹立たしく思ってしまうものですが、神の本音は、隠れることにあるのではなく、早く捜し出して欲しいと、見つけられることを楽しみに待っているお姿というべきなのでしょう。捜す気満々の子どものように、この聖なるゲームに参加し続けたいものですね。
↓矢代川沿いの桜
矢代川の桜

 気がつくと、日一日と緑が増えていきます。聖書が言う如く、まさに「眠っている間に」春は活発に動いているのですね。いよいよ新緑の本番を迎えます。やわらかい緑が徐々に一面を覆うようになるこれからの約一ヶ月は、いつもながらこのまま時間が止まってほしいと思う楽しみな季節です。残念なことは、あっという間に過ぎてしまうことですね。

 自然ののどかさに比して、内外の政治社会状況は大きな変化を予感させ、気になる状況が沢山です。近付く南北会談、米朝会談を中心に、それを取り巻く世界に何か大きな変化が起こるのかどうか、重要な歴史的瞬間を迎えているともいえます。この重要な時期に、しかし安倍政権は気もそぞろといった状況ではないでしょうか。ここに来て5年間の安倍政権の膿が次々と暴露されて、政権の足もとが大きく傾きかけているからです。政権の1強状況がおごった強権的私物化政治を招いたと盛んに論評されていますが、まさにその通りでしょう。今までは強い政権に忖度しているように見えた政権支持側のマスコミまでが遠慮せずに報道しているかに見えます。しかし不誠実な政権を追いつめるべきこの時、我が米山知事のスキャンダル会見がなされ、辞任の方向であることが報じられました。原発慎重政策に期待していただけに、足元をすくわれたような痛手感がありますが、会見の誠実さには同情を覚えました。本人は無念でしょうが、しかし正直に罪を認めて責任を取ろうとする態度に、「この人は大丈夫だ」と、再起を応援したいと思いました。

 しかし一方の政府の態度は全く対照的です。繰り返し嘘を平気で強弁し続け、それでいて「信なくば立たず」を平気で引用する無神経ぶりには、つける薬がないとあきれるばかりです。政治家どころか人間辞任ものだと思ってしまいます。聖書は能力ではなく、正直と誠実、そして正義と真実こそ人間のいのちと教えます。誰でも失敗や罪から自由ではありません。そこにうその誘惑が入ります。罪は隠す時ますますその奴隷となります。しかし隠さず告白する時、もはや罪はその力を失い、私たちは憐れみを受けて勝利者となれるのです。
↓教会のライラック
2018-04-15 ライラック-2

 満開のサクラがだんだん散り始め、葉ザクラとなりつつあります。またこの季節は無情にもよく春の嵐も吹き荒れてしまいますので、サクラのいのちはそれとの戦いのようでもあります。でも自然界はそのことも織り込み済みなのでしょう。多分サクラは満足感と共に今年の使命を終えて次の花々に舞台を譲るのでしょう。教会の庭ではもうライラックが咲き始め、そして新緑の季節になりつつあります。春は変化が早いのでそれがうれしくもありますが、またそれについていけないのが残念でもあります。

 自然界は多少の前後はあったとしても、結局は何にも乱されないように整然と美しく進行しています。それを見る度に、神の力強い支配が狂いなく行なわれていることを思わされて安心します。伝道の書に「神のなさることはすべて、時にかなって美しい」(3・11)とありますが、まさに自然界こそそれを雄弁に証しているのではないでしょうか。それに比して人間世界の進行はとても美しいとは思えないのが現実です。ごつごつとあちこちにぶつかり、前進したと思えば、また逆戻りし、美しいどころか混乱こそが特徴だと思えてしまいます。

 二度の世界大戦の大破壊期、続く冷戦時代の分断を経て、世界はいよいよ武器放棄と平和と調和に向かうのかと期待されましたが、昨今はすっかり逆戻りの観があります。悲願の核兵器削減交渉は進まず、各国は逆に軍備拡大へと舵を切っています。安定を指導すべき米中露の大国がその混乱をあおってしまっては世界はいやおうなくそれに巻き込まれてしまいます。日本も戦後の国是としてきた絶対的平和主義を、積極的平和主義との詭弁のもと、歯止めを取り払ってご都合主義に変えようとしています。またシリヤの度重なる化学兵器使用など等、これらの世界の姿はみな人間性の劣化としか思えません。これらの現実を見るとき、果たして神の支配は?そして「時にかなって美しい」という神学はどう理解すべきかと思ってしまいます。答えは簡単ではありません。しかし神は愛と忍耐の時をゆっくり回しながら、人類を試しておられるということだけは確かなのではないでしょうか。
↓教会のコブシ
2018-04-10 コブシ

 昨日3日が、新潟市のサクラが満開となったと報じられていました。その如くほぼ県内どこでも満開状態になったのではないでしょうか。今は未だ若葉の緑を待っていますが、コブシやモクレンとサクラの木が林立しているところでは、こぼれるような白とピンクが合わさって見事な景観となっています。サクラ一色となるこの季節は日本中に春の喜びを届けています。そして確かにサクラは日本文化にはなくてはならない存在ですね。

 先週はイースターを記念しましたが、いのちの爆発を見せるこの春のすばらしさを眺めて、復活などあざ笑うこの世界も、もしかして・・と、耳と目を開き直す機会となるなら幸いです。主イエスの復活は「死は勝利に飲まれたり」と、この世界を縛っていた死が神のいのちによって打ち破られてしまったと告げます。また「死はもはやトゲを抜かれて」この世界を害することはできないものとなったと、その勝利を宣言します。

 2000年前に起こった主イエスの十字架の死と復活という出来事は、それまでの死の世界を一変させたというのが聖書のメッセージです。聖書の歴史においては、2000年前のこの事件は旧約の世界と新約の世界を分ける分水嶺となりました。旧約聖書は一言で言うなら、罪によって堕落した世界に死が入ってきたこと、そしてその死に深くおおわれてしまった世界を描きます。新約聖書は、この死の世界を打ち破るために救い主イエスが遣わされ、十字架によって罪と死を滅ぼし、回復されたいのちの世界が始まったことを描きます。しかし世界を二分する史上最大の出来事は、一般史においては全く無視され、2000年前の十字架と復活など、おとぎ話の類とされ、世界の隅の隅に押しやられています。無理からぬことですね。聖書だけがその意味を告げるからです。聖書を知らない世界はそれゆえ依然として死だけしか見えず、やがて訪れる死の影におびえています。しかし死が打ち破られ、今すでにいのちの世界に生かされていると知った私たちは死の世界に逆戻りすることなく、復活の信仰をしっかり握り、いのちの希望に生きる見本とされたいものです。