↓道の駅あらい「ひだなん」 フキノトウ並ぶ
2018-03-18 フキノトウ

 寒さから一転して急に暖かい春の陽気が続きました。暖かさは大歓迎ですが、自然界も少し戸惑っているかもしれません。今年はサクラの開花を予想するのが難しいかもしれませんね。自然界がいっせいにいのちに輝くこの季節、それ以上のいのちが一人ひとりに与えられることを覚えて、自然をほめたたえると共に、いのちの源である神と我が身の幸いを賛美したいものです。

 森友問題が再燃し、国会が急に慌しくなりました。森友・加計疑惑を何とか押さえ込んだと思いつつあった政府にとっては今、春を楽しむ余裕はないでしょう。約一年前、国会で疑惑を否定して全く自信に満ちてと言えるほどの強弁を繰り返していた佐川長官がとうとう辞任に追い込まれました。この日が来るとは誰も思っていなかったのではないでしょうか。氏の昇進人事を主導し、全く適材適所と強弁し続けた政府もここに来て弁明に負われています。そして今度は我が身を守るためにその佐川氏一人に罪を擦りつけ、氏を厳しく罰することで自らの正当性を演出しようとしています。その見苦しさはもう国民の目に覆うようもないでしょう。

 ところがこの政権の厚顔さは依然として頭を下げようとせず、また逃げの一手で何とか延命を図ろうとしている姿です。これがこのまま許されたら本当に国民をバカにした私物化政治を許すことになってしまいます。でも気がかりなのはあまり支持率が下がっていないことですね。大きなブレーキがかかってこのような政権が延命できない国のレベルになるべく国民全体が問われていますね。

 しかし今回、うやむやな幕引きにならず、嘘と悪が明るみの出てきたことは救いです。一部の人々の地味な努力の賜物でしょう。佐川氏の答弁に代表されるような真っ赤なウソが国会の場で大胆に主張されるなんてとても納得できないし、あってはならないことだからです。ここでブレーキがかかったことは、真実と良心が生きていることの証拠であり、また私たちにとっては、正義の神が黙ってはおられない確かな証拠として励まされます。現実がどんなに灰色で混乱させられても、さばく神がおられるという確信こそ正しく人生を歩む拠り所です。
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 春らしい天気が続き、雪が見る見る消えていきます。こうなるとあまり早く消えないでもう少しゆっくりと雪の名残を楽しみたいとも思ってしまいます。でも散歩できる空間が広がっていくのは楽しみです。日当たりのいい川べりなどはもう十分歩けるのではないでしょうか。ほとんど歩けなかった冬の日々を、これからは少しずつ挽回したいと思います。

 教会総会が終わり、私たちも新しい歩み出しをしようとしています。キリスト教会は特に我が日本にあっては1パーセントにも満たない人々の群れです。そのような状況の中で一体私たちが何ができるのだろうかと考えてしまいますが、全天地の主であり、すべてのものを動かしておられる主キリストが、教会のかしらとして導いておられることに繰り返し思いと信仰を寄せて、この壮大ともいえる教会の姿に励まされ、見失いがちになりやすい使命を確認したいものです。

 教会は「地の塩、世の光」と定義されていることを確認しました。ことに塩という比喩はその役割を分かりやすく伝えます。塩はごく少量でも料理の味をつけるには十分です。ですから量の多少はこの役割には関係がなく、塩が塩である限り、十分にその役割を果たすのだと励まされます。要は、塩気を失わないことに教会の命があるということになります。

 この塩気について、聖書はいろんな表現で定義していますが、「神の国とその義を第一に求めること」という説明はその代表的なものです。この世界がとかく人間の欲望を第一に求め、それが大河のようにすべてを飲み込むように流れても、その中で神の御心を第一に求める人々こそ社会の良心足り得るでしょう。今、世界はことに国々の権力者たちが自分こそ世界を動かす者とならんとするが如く、権力の集中を図っています。ことに中国、ロシアそして米国の露骨な動きは世界を不安にさせています。国はその内に持つ獣性を露骨に現し、自分の色に染めようとしているかのようです。

 義と平和がおびやかされようとしているこの時代に、私たちは真の王なる方の御心こそが成りますように、神の国の民として自らの内に塩気を保ちたいものです。
うめ

 3月を迎えます。ずっと続いた低温ですが、ようやく温度も上がり始めました。今朝は春の嵐が吹き荒れるから注意との予報でした。最近のゲリラ豪雨のように、風も暴風化して風のイメージが悪化していますが、でも古来、雪国にとって春の嵐は、待ちに待った良い訪れであり、心踊るような響きがあるのではないでしょうか。願わくは災害ではなく、春を運ぶうれしい恵みの大風となりますように。

 教会総会を迎えますので、改めてまた教会に思いを寄せましょう。私たちは不思議な導きによりキリスト教会の門をくぐりました。私がそこに見た第一印象は別世界でした。もちろんこの世界にだんだん慣れるにつれて、その鮮烈な印象は色あせて来もしましたが、しかし今度は聖書からその第一印象を越えるような教会の真の姿を学ぶようになりました。神が教える教会の定義とは本当に驚くべきものです。「キリストの花嫁」「キリストのからだ」「神の神殿」「天の御国」・・・。およそこの世のものとは思えない定義が並びます。ですから私が初めて門をくぐったときに感じた第一印象はまちがってはいなかったのであり、幸いにもその教会は聖書の説く真理の一斑を反映していたのです。ハレルヤ。

 上に上げた定義の一つ一つはみな目を見張るものですが、今日は「天の御国」というイメージに注目したいと思います。平たく言えばこれは、教会は地上に於ける天国であって、天国が地上に舞い降り、天国を映し出すところということですから、何と恐れ多い姿でしょうか。でも幸いですね。そうありたいと願わされます。それがこの世にある教会の大きな使命です。でも聖書では天国の定義が味わい深いものです。すなわち、罪人たちの天国、罪人たちによって造られる天国なのです。それはどんな国でしょうか。不完全な罪人たちが集まっていながらそこに天国が造り出されるのです。それが可能であるとすれば、それを造り出すものとは、赦しと愛ですね。自分も赦されているという神の愛と恵みを知った者同士の世界だからです。罪を飲み込む大きな恵みに生かされている世界、それこそ地上の天国です。
 雨水を過ぎました。雪は、ぼた雪、あわ雪の春の雪に変わってきました。それでも未だ天気予報ではしっかりと雪マークもついていますし、気温も依然として低いので、今年は暦の進みは一回りも遅いのかもしれません。ちょうど先週の招詞箇所だった詩篇147篇には、「主がみことばを送って、雪と氷を溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる」とありましたが、主が吹かせる暖かい春の風が待ち遠しいですね。

2018-02-16 羽生11


 また冬季オリンピックの話題になってしまいますが、熱戦が続いて勝者と敗者のドラマが繰り広げられています。先週も書きましたが、それはまた普遍的な人生のドラマを見るようですね。人生にはいろんなところで勝者と敗者が生み出され、勝ち負けが織り合わされて進むドラマのようだからです。そこではやはり勝者への賞賛と栄誉が大きく報じられ、敗者は静かに退場し、あまり光が当てられることはありません。当然と言えば当然ですが、その対照にやはり人生の悲哀、あるいは不条理とでもいうものを感じてしまうことも多いのではないでしょうか。

 勝者の喜びとその報われた感とでも言うものに私たちは共感し、祝福を送りたいと思いますが、しかし敗者の悲しみにもまたそれ以上の共感とエールを送りたい気持ちにもさせられます。と言うのも、一人の勝者に対して、それに届かなかった多くの敗者がいるからです。そうであるなら、この地球上には勝者よりも敗者の方が当然ながら圧倒的な割合となります。それにまたどんなに強い勝者といえども、その人の競技人生においては、多分その何倍も敗北を経験しているのではないでしょうか。良いバッターでも3割打者と言われるように、7割はヒットを打てない日々を過ごすのです。ですので勝利という大きなプレゼントは数少ない一瞬であり、他は失意の7割ともいえるのが人生の現実です。としたならこの7割の日々にこそ恵みの光が当てられ励まされなければなりません。神様はこのことをよくご存知です。私たちが敗北の日として沈んでしまう日々こそ、人生を造る価値ある日々として、近付き、寄り添い、励ましてくださるのです。
高田城

 今週が冬の最後の寒波になるのでしょうか。今回も里雪型で平地に思いのほか多くの雪をもたらしました。最近のゲリラ豪雨の傾向のように、雪の降り方もまた変化しつつあるのかもしれません。でもいよいよ雨水を迎えます。異常低温が続いた厳しい冬も、もう春の力の前に退場せざるを得なくなる季節の分かれ目です。近付く春を喜びつつ、過ぎ行く冬もまた名残惜しみたいと思います。

 韓国のピョンチャンでは極寒の中、冬季オリンピックが開幕し、その強風と低温が競技の大きな敵となっていることも報じられています。そんな中、注目を集めた女子のジャンプとスケートでメダルが取れたことで日本中がほっとしているのではないでしょうか。中でもずっと世界の王者として君臨してきた高梨選手のプレーには日本中が一喜一憂しました。金メダル本命の絶対王者として臨んだ4年前のソチオリンピックでは、まさかの4位に沈みました。勝負の無常さを日本中が共有しましたが、本人の衝撃はどれほど大きかったことでしょうか。トラウマのようになって4年間ずっと苦しめてきたことでしょう。今回は銅でしたが、それでも今までの傷と苦しみが癒されたであろうことを共に喜びたいと思います。それにしてもオリンピックのような大きな大会での勝ち負けの悲喜劇は、人生の難しさが凝縮されているようなドラマですね。それは結果が必ずしも順当で合理的であるとはいえない現実を見せられるからでもあります。それが勝負の面白さであると第三者的には達観できるかもしれませんが、実際に身を置く時には大きなストレスをもたらします。

 私たちの人生もまた誰しもこのようなストレスと無縁ではありません。このストレスに対処するには、やはり結果がすべてではないという価値観を学び続けることでしょうか。聖書は結果は神のものであるとはっきり告げます。それは結果だけで判断しないようにとの神の警告と励ましです。神様は結果よりもむしろその途中を、人生の全体をご覧になってくださるのです。結果はゆだねつつ、途中の歩み方をこそ励まされたいものです。