【聖書】

IIコリント 4・7~5・9

【説教】「ですから、私たちは勇気を失いません」

↓早津牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます


*4月23日の説教は録音ミスのため、音声はありません
↓国道18号、道の駅あらい付近の八重桜
2017-04-30八重桜

 ピクニックを予定していた先週の日曜日、気になる天気はほぼ快晴ながらかなりの低温との予報でした。晴れても寒いのはピクニックにはいかにも興醒めですので、何とか1度でも2度でも温度が上がりますように、できれば南風が吹きますようにとひたすらそのことを祈っていましたが、当日の明け方、南風どころかけっこうな大雨の音に耳を疑いながら起こされました。南風どころか逆の答えに気分は恨めしく沈みました。でも朝から雨なら返って迷わされずに屋内と決められるではないかと、気持ちを切り替えて慰めました。ところが天気は意外と回復し、前向きな何人かの兄姉にも考えは修正され、礼拝の終わる頃には野外ピクニックを決断していました。結果的には気温も思ったほど寒くなく、無事ピクニックを終えることができました。神様これがあなたの導きですか、と釈然としない思いながら、神様のあわれみを覚えながら感謝の帰途となりました。天気相手は一筋縄には行かないものですが、神様相手もお前の思い通りではないよ、と改めて考えさせられた一日でもありました。

 今朝の新聞に、沖縄の埋め立て工事再開が大きく報じられていました。有無を言わさずの政府の姿勢が露骨に回り始めました。沖縄の人々に寄り添いなどとは単なる時間稼ぎだったのかと怒りを覚えますが、沖縄の人たちは何度裏切られてきたことでしょうか。天気には温かみがありますが、政府にはただ粛々といった冷たさしか感じられないでしょう。期せずして今村大臣の「東北でよかった」発言が、今度ばかりは政府としてもかばいようがなく辞任に追い込まれたことが報じられていましたが、首相や官房長官のただ一辺倒に繰り返す辺野古移設最善発言は「沖縄でよかった」と言っているに等しく、辞任の抗議も起きないのが寂しいですね。沖縄と対話しないで米国とばかり対話している政府はまた日本全体の醜い姿でもあります。日本全体が「沖縄でよかった」と無責任に追随してきた歴史、仕方ないと言ってきたあまりにも大きな山が、少しでも逆方向に動き出すように祈りたいものです。
↓教会のライラック
2017-04-21ライラック

 春の嵐が続いて、もう少し楽しみたいサクラが早く散ってしまったところも多かったことでしょう。でもサクラと大風が重なるのはこれまた春の自然なので良しとしなければなりませんね。貴重なサクラのシーズンが終わろうとしていますが、今度は新緑と共に様々な花々が一気に咲き出し、サクラの喪失感を十分補ってくれるのではないでしょうか。この春の美しさを見れば、神様のご性質が義であり、善であるとともに、美なるお方であることも疑うことは出来ません。

 この美しく調和の取れた自然界に比して、人間社会が美しく保たれるためにはなんという労力が必要なものなのかと、最近は考えさせられることが多いのではないでしょうか。二度の大戦の教訓を深刻に刻んで再出発した世界は、平和という価値観が切実なものとして共有され、それによって曲がりなりにも安定を築いてきたように思えますが、ここに来て安定の主役であったヨーロッパやアメリカに、全く予想もしなかったナショナリズムが台頭し、それが象徴するように、今世界の状況を表現するために、分断ということばが盛んに使われるようになっています。

 先日はシリヤの化学兵器使用に対する最大限の抗議であったとは言え、アメリカがまさかの大々的なミサイル攻撃を敢行しました。目にあまるアサド政権に対する牽制として、どこか溜飲を下げるような思いが生じたことも禁じ得ませんが、でも一方で冷静に考えれば、今まで慎重に封印されていた武力行使があっという間に解き放たれてしまった瞬間であったとも言えるのではないでしょうか。今ミサイルのような近代兵器が一たび発射されれば、一瞬にして大破壊がもたらされます。70年前の大戦の比ではありません。その武力映像を見ながら、武力戦争の戦慄を改めて覚えさせられました。今政府は新安保法制をまとめて時代に適応した安全保障体制を整備したとの高揚感の中にあるようですが、戦争の教訓を忘れた軽さを覚えずにいられません。国民全体が武力という一時の高揚感の誘惑を断じて拒否する冷静さを試されていることを覚えさせられます。
【聖書】

ルカ 24・1~12、36~53

【説教】「たわごとが歓喜のメッセージに」

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2017-04-16イースターS

 今年の春は少し天候が不順ですが、今私たちの地はちょうどサクラが満開です。日本ではあまりにも慣れ親しんだ風景でもありますが、でもこれは一年に一回きりの光景ですから、数えてみれば、長寿の人でさえ100回にも満たないのですから、貴重な風景でもありますね。約10日ほどの花期を過ぎれば、今度は来年までのほぼ一年間、万人に愛でられるこの時期とは対照的にほとんど目立たない木としてひっそりとたたずみます。風雨にさらされながらその場を動かずじっと耐える植物たちの忍耐は、これまた花期以上の称賛ものではないでしょうか。

 今年はちょうど桜の満開時にイースターを記念します。サクラに代表される春の自然界は、まさにいのちが爆発しているようです。聖書に、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。・・・話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り」(詩篇19)とありますが、まさにこの春は神のメッセージが響き渡っているようではないでしょうか。そのメッセージとは、神は尽きないいのちに輝く世界を造られたということです。

 創世記には、神が創造のわざを終えてすべてのものを見られた時、「見よ。それは非常に良かった」と記されています。すべてが美しく完璧だったのです。その意味することは、そこには、死は一つもなかったということです。しかしこのいのちの世界に死が入ってきました。それは人間の罪の故ではありましたが、それは途中からの侵入物であり一時的なものに過ぎません。しかしこの死が今や我が物顔にこの世界を支配しているかのようです。死こそ元々からあったこの世界の動かすことの出来ない最強の支配者だというメッセージこそ、この世が作り出した最大のフェイクニュースです。全人類の罪の身代わりとなって十字架に死なれたイエス・キリストは、罪と死を滅ぼしてよみがえり、今やこの世界をもう一度、創世記以上のいのちの世界に取り戻して下さったのです。復活の主を見上げることによって、この世界を覆っている偽りのニュースに立ち向かいたいものです。
【聖書】

ルカ 10・25~37

【説教】 「良きサマリヤ人の世界」

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2017-04-08文化ホール周辺

 なかなか寒い日が続き、今か今かのサクラも今年は大分足踏みをしているようです。しかし開花を待つゆっくりな時間もまた味わい深いものです。サクラが満開になるころには、今度は時が早回りするように一気に春が進みますから、その頃は逆に時間の早さが恨めしくも思えますね。いずれにしてもいのちが輝く春はすばらしいの一言です。春を造られた神様は、私たち人類に一体どのようなメッセージを告げておられるのでしょうか。

 教会では復活を記念するイースターの前に、主キリストの十字架の死を記念する受難週を過ごします。輝かしいいのちの前に、キリストの受難があったことを改めて考えさせられるこの季節です。聖書の有名な句に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12・24)とありますが、自然界のこのすばらしい春の背後にも、実は隠された神様の大きな犠牲とでもいうべき労苦が隠されていると見ることもできるのではないでしょうか。ちょうど豊かな作物の背後に、農夫の多くの労苦が隠されているように。この地球の美しい自然というドアをくぐって中をのぞいて見たら、何と神様が泥まみれになって、様々な汚染物や問題と格闘し、労苦しておられたというような絵をイメージしてみることもできるかもしれません。主キリストの十字架のお姿は、まさにこの泥まみれの農夫の姿と重ねることもできるでしょう。

 しかし十字架の苦しみの真の意味は、この自然界を支えておられるというよりも、私たち一人ひとりの人生と関わります。それは人間の苦しみ、病、そして失敗や罪を一身に背負って私たちの身代わりとなって苦しんでくださっているお姿です。泥まみれの神様、いや私たちの罪の罰を代わりにに引き受け十字架上で血まみれになっている神様を一体誰が想像できたでしょうか。人間は、人の不名誉や失敗、そして汚れからは遠ざかります。しかし神は人間の汚れと失敗の真ん中に降りて来られ、それを引き受け負って下さるのです。私を生かすために何という犠牲がささげられたことでしょうか。

2017-04-08岩崎雅子記念礼拝S

 本日は、天に召された岩崎雅子姉の記念礼拝です。

 主よりの慰めと、ご遺族をはじめ、主のからだ全体に豊かにありますように。

【聖書】

ローマ 14・7~9

【説教】「人生の意味と癒し」

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↓斐太遺跡「天神堂」カタクリ
2017-04-08 天神堂

 4月を迎えます。サクラの便りがあちこちから聞かれるでしょう。こちらは、早くても未だ二週間後とは言え、日当たりのいいところでは急速につぼみがふくらんでいるのではないでしょうか。部屋から見える少し遠くのサクラを、望遠鏡でチェックするのが最近の楽しみになっています。

 今年のサクラを待ちながら雅子姉は天に旅立ちました。教会には昨年の満開のサクラの中で微笑んでいる雅子姉のすばらしい写真が飾られていますが、地上にあってはもうそれを再現することはできなくなりました。でも聖書によると、その何倍にもまさる天のパラダイスに移されたことが告げられていますから、それを信じて姉の召天に慰めを覚えるとともに、私たちもまた天の故郷への憧れをかき立てられたいと思います。
つくづくと人の一生は不思議なものですね。人類の歴史が始まって以来どれだけの人々がこの地上にその足跡を刻み、そして地上を去っていったことでしょうか。その無数の数を思うと、ともするとその中の一人の一生など、無数の中の一点にも満たないように思えて、いかにもはかないものと思えてしまいます。確かにこの感覚は自然とも言えますね。

 聖書を知るまでは私たちもこのはかなさから抜け出ることは出来ませんでした。しかし聖書は何と違った世界を示してくれたことでしょうか。一人ひとりが全世界よりも重い価値を持つ者として神によって造られたことと、そしてそれゆえにその一人が80年で死に飲み込まれて終わるようなものではなく、永遠の存在であると示されたのです。確かに全世界よりも重い存在であるなら、世界が滅びてもなお一人ひとりは生き続けるものとして意図されているのです。聖書には驚くべき二人の人生の結末が書かれています。エノクとエリヤです。彼らは生きながらにして天に上っていったのです。これは聖書における真珠のようなところですね。地上の80年は終わりではなく、天につながっていること、いや天に羽ばたいて凱旋することを示しているのです。それぞれしっかりとこの結末を夢見、憧れながら、地上の生を雄々しく歩みたいものです。
【聖書】

Iペテロ 1・13~23

【説教】「聖なるものとなるために」

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↓観桜会の順便が進む高田公園
2017-03-25ぼんぼり

 今週20日、教団総会のために長岡まで行きましたが、外の田園風景はもうどこもすっかり雪が消えて、晴れやかな早春の暖かさでした。こちらの松山もとうとう駐車場が空いて、ほとんど自由に公園を歩き回れるまでになりました。冬の運動不足の解消と共に少しでも待ちに待った春の中を歩ければ幸いですね。

 今、国会では共謀罪法案が提出されようとしています。弁護士会やペンクラブ等、各方面から、内面の自由や基本的人権が犯されてしまうと危惧されて反対が表明されている法案です。素人の私たちにはなおのことその全体をつかむことは困難です。当の法務大臣すらもほとんど肝心なところが答弁できない醜態がさらされ続けていますが、そんな法案をなぜ急いで成立させようとしているのでしょうか。国民が不安を抱くのは当然であり、全く無責任としか言いようがありません。

 安保関連法案のときも、戦争法案になりうるとの危惧にたいして、断じて国民に危害が及ぶことなどないと軽く保証し、逆に国民を守るための法案であることを強調した安倍首相や政府の姿と重なります。国は国民全体の運命を左右する莫大な責任を有しています。その選択は重大な影響をもたらします。であればなおのこと時間がかかっても慎重に審議し、意に沿わなくても逆戻りしなければならないでしょう。それは不名誉ではなく健全さの証拠だと思います。でも大丈夫、大丈夫と言って先に進める自信と軽さが不安です。組織というものは大きくなればなるほど責任が不明確になります。豊洲移転をめぐって都庁全体の無責任体質が浮かび上がっていますが、それはまた国と重なります。先の大戦が結局誰も責任を取らずズルズルと泥沼化していったことが最たる例ですが、今日の原子力行政もまたそれを地で行っている悲しい教訓ではないでしょうか。責任とは重く悩ましい問題です。国は国民の総意でもありますから、誰かになすり付けて自分は関係ないということはできません。責任を問う時、自分の内にある無責任体質も問われていることを覚えて襟を正したいものです。
【聖書】

イザヤ書 55・1~3

【説教】「聞け、そうすれば生きる」

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 早や3月も半ばを過ぎました。今年は雪が少なかったとは言え、期待したほどには温度は上がらず、これまでは「春は名のみの」という歌詞そのもののようではなかったでしょうか。でもいよいよ春本番ですね。そして今は卒業式が終わり入学式を待つシーズンです。サクラを待ちながら過ごすこの時期は何となく私たちにも華やいだ気持ちが伝わってきます。しかし今の閉塞感のある世界に乗り出す彼らの前途を思うと、少し複雑ですね。

 今もっぱらマスコミの話題となっている森友学園の教育観は、混乱した世界の日本版といえなくもありません。70年前に克服した、教育勅語の世界観の再教育を目指すことが、この学園の校是のようだと知らされて、愕然とさせられました。ああ未だこのような人が日本にいるのだなという驚きですが、その学校があわや認可寸前であったということは、籠池理事長一人ではなく、これに賛同する似たような人々の存在あってのことなのでしょう。この学園問題をきっかけとして、安倍首相夫人を始め、稲田大臣やそのほか、政権の中枢ともいえる人々があぶり出されました。その思想の中心にいる人こそ安倍首相そのものであることは誰にも周知のことでしょう。このような世界観を持っている人々を自分の下に集めて、先祖帰りのような悲願の憲法改悪を推し進めようとしています。

 森友学園は驚きでしたが、これを契機に改めて安倍首相とその取り巻き、ひいては今の自民党政権の本質が日本中に知らされることになったともいえますから、大きな牽制となることを願わずにはいられません。しかし平気でウソをいい、答弁が破綻していながら、当の大臣が更迭されそうにない今の政権の自信振りを見ると、焼け石に水の感は否めません。つくづく選挙の大勝利と高い支持率を与えている我が国民を恨めしく思います。すでにトランプ氏、そして籠池氏、稲田氏・・・、ありえない変な人が権力を持ち、時代を動かすことも想定外とは言えません。日本の上に真に安心できる政治家が起こされるように、そしてすべての支配の上に更に高くいます主の支配の栄光こそがあがめられますように。
【聖書】

詩篇 23

【説教】「神の愛のミステリー」

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春の小川

 啓蟄を過ぎ3月も半ばを迎えようとしています。冬が確実に終わります。11月の半ばに初めて白鳥を迎えてから4ヶ月になります。最近はあまり白鳥を見かけなくなっていますが、先陣はもう北へ旅立ってもいるのでしょう。今年の冬を共に過ごした仲間たちが知らないうちに旅立ってしまわないで、出来たら雄大な大群を見せて、しっかりと見送らせて欲しいと願っています。

 何回か脱真実の新しいウソの時代が到来する危惧について書いてきましたが、でも一方でウソの問題は人類にとっては歴史の初めからの普遍的な問題であることも改めて確認したいと思います。先回も触れたように、聖書によれば人類の歴史はアダムとエバを誘惑した悪魔のウソから始まりました。以来悪魔は自らは姿を隠しながら、巧妙にうそを真実と見せかけるように騙し続け、人類をウソの奴隷として支配しているというのが、聖書の教える人類の歴史の真相です。聖書を知らなければ、そんな考えこそ荒唐無稽なウソと一蹴されるのが世界の常識であることも承知しています。悪魔や神を持ち出すことこそもう頭がおかしい人というのが、今日にあっては圧倒的な支持を受けている真理ということになっています。ですからことは深刻ですね。クリスチャンの観点から言えば、最大のウソとは神なんかいないということであり、そこから当然の如く発生している世界観の代表が進化論ということになります。どちらが真実なのか。どちらかであるとするなら、人類はもう土台から大多数がウソの上に乗っかっていることになります。

 今世界が問題にしているのは、圧倒的な情報氾濫の時代にあって、それらの真偽をどうやって見極めるかということですが、最も肝心な始まりのところでウソに騙されているなら、今日の泡くずのような情報の真偽などどれだけの問題かといえなくもありません。いずれにしても古来人類は、何がウソで何が真実かの戦いの前に立たされていることは確かです。元をたどれば、それは神からか悪魔からのどちらかに発するのです。いのちのみことばである聖書こそ、リテラシー(吟味能力)を訓練するものであることを覚えましょう。
【聖書】

Iコリント 12.12~27

【説教】「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」

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梅2

 3月に入りました。今年の冬はあまり冬らしくなかったとも言えますが、やはり3月はうれしい響きですね。名実共に春の始まりです。先日、初めて凍み渡りをしました。一年振りの感触でしたし、今年に入って初めての野原の散歩でした。松山の梅は日当たりの良いところではもう5部咲きになっていました。もちろんサクラの木は未だしっかりと小さなつぼみのままでしたが、その体内では忙しく一ヵ月後の爆発に備えているのでしょう。

 社会ではこのところずっと大きなニュースが続いています。マスコミは張り切り、そして私たちもニュースに釘付けにされます。一体こういう状態がいいのか?と考えなくもありません。聖書には2000年前のアテネの町の状態が興味深く記されています。アテネは全盛期を過ぎたとは言え、1世紀のローマ帝国にあって依然として学問の都であり、インテリたちが集まっていました。この町の人々について「彼らはみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」と聖書は報告しています。新規な空想話にうつつを抜かす怠惰な奴らと軽蔑したくなりますが、このアテネの町の状況は、2000年以上を経た現代においてこそ、ぴったりと言えなくもありません。

 何か耳新しいことを聞きたい、ということは人間の性(さが)とでも言えるものではないでしょうか。今日の百花の如く発達したマスコミ文化はそれに答えようとしたものであり、この人間の性が生み出したものとも言えるでしょう。更に今はインターネットを通じての情報文化が、従来のマスコミ文化を超える勢いで広がっています。まさに情報の洪水の中に人間と社会全体が溺れかけていると警告されています。これを手段としてフェイクニュースが所かまわず発信されるのです。そして人間の性がこれを面白がって歓迎するという有様です。「偽りの父」である悪魔にとってまことに好都合な社会が現出していることになります。教会は「真理の柱、また土台」と定義されています。ウソの洪水の中でしっかり立って、揺るがず、「道、真理、いのち」そのものであるイエス・キリストを証したいものです。
【聖書】

Iコリント 12.1~11,27~13.3

【説教】「神の賜物に生きる、そしてさらにまさる道」

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フキノトウ

 今年の「春一番」はその強風ぶりが話題になりました。この言葉はことに雪国にとっては、うれしい大歓迎のことばですが、確かにこのところは大風が周期的に襲来する感じですね。大雪は大変だと言っても、まだ時間的余裕を持って迫ってくる分、優しい自然とも思えますが、大風は瞬間的な暴力のようですから、厄介者ですね。日本語の風という言葉も、本来はそよ風に代表されるような爽やか慕わしいものというイメージではないかと思いますがすが、これからは少し変わっていくかもしれません。日本列島がいつまでもそよ風の島であって欲しいと思ってしまいます。

 トランプ政権が誕生して1ヶ月が過ぎました。依然としてトランプ旋風が吹き続けています。大統領に就任すれば、選挙期間中のような言動はさすがに沈静化して、良識的な運営になっていくだろうとの大方の予想に反して、その厚顔ぶりは衰えません。多くの人にとっては新しい人種を見るような思いではないでしょうか。アメリカのトップはある意味で世界のトップでもありますから、その影響は甚大です。いつまで強権ぶりが許されるのでしょうか。新しい人種と言いましたがまさにそんな人間の出現のようですね。平気でうそを言う、それを指摘されても開き直り、そのうそを撤回しないばかりか、それを更に正当化するような論理で押しまくります。有り得ないだろうと思ってしまいますが、洗剤の宣伝の如く有り得ているのですね。有り得ないだろう、そのうち変わるに違いないという予想こそ修正しなければならないのかもしれません。

 この新しい人種を象徴することばが、ポスト・トゥルース、フェイク、アルタナティブファクト等でした。その中心にあるのが戦略的にうそを多用していることです。聖書によると、アダムとエバが堕落したのは、悪魔のうそに耳を傾けてしまったからでした。悪魔は真っ赤なウソを何のためらいもなく自信たっぷりにささやいたのです。悪魔は「偽りの父」とも定義されています。今、悪魔はまたあからさまに、うそによって人類を堕落させ、偽りの子ら、新しい人種?を造り出そうとしているのでしょうか。
【聖書】

ローマ 12.1~8

【説教】「柔和と謙遜の道」

↓早津牧師の説教 *三角印をクリックすると声が流れます